捏造された聖書

『捏造された聖書』 - leeswijzer: boeken annex van dagboekで紹介されているのを見て読んでみたが、なかなかおもしろい本であった。

捏造された聖書

捏造された聖書

スキャンダラスな、あるいはオカルトな連想を招く邦題であるが、原題はMisquoting Jesus: The Story Behind Who Changed the Bible and Why (Plus)で、書いた人はバリバリの文献学者。本の内容も、聖書の伝写とそれを復元しようと試みた聖書学者のお話。全体として著者の立場が「テキストを読むということは、必然的に、テキストを改変するということなのだ」(p. 275)というものなので、オリジナルはこれだー!みたいなマッチョな論述になっておらず、信頼感が持てる。訳も、ちょっと山形浩生風で、読みやすい。

聖書学は言わば西洋の文献学を生み出し、鍛えた場である。特に、聖書の文献学が、「ただ聖書のみ」というスローガンのもとカトリックから独立したプロテスタントと、それを攻撃するカトリックとの論争の中で発展したというのが面白い。聖書の様々な異なった写本が発見されると、カトリックはここぞとばかりプロテスタントを批判する。聖書のオリジナルは失われたので、聖書だけに頼ることはできない。信仰の基盤は使徒の時代から続くカトリック教会のなかにこそあるのである、と。

プロテスタントの聖書理解に対するこのような理路整然たる論難は、学界ではひじょうに深刻に受け止められた。一七〇七年に〔三万カ所の異文を載せた〕ミル版が出ると、プロテスタントの聖書学者たちは現存する写本の実態を認識し、自らの信仰理解の再考と防衛に迫られた。もちろん「ただ聖書のみソラ・スクリプトゥラ)」という観念を捨て去るわけにはいかない。彼らにとって、聖書の言葉は依然として神の御言葉の権威を担うものだった。とはいうものの、ひじょうに多くの箇所でその言葉が実際には何だったのかが判らないという状況にどう対処すればよいのか? ひとつの解決策は、本文批評の技法を発展させることだ。そうすれば、当代の学者たちがオリジナルな言葉を再現し、信仰の基盤は再び盤石なものとなるだろう。このような神学的課題を背景に、主にイギリスとドイツで、有用かつ信頼しうる手法を開発する努力が行われたわけだ。 (p. 137)

方法論的な問題についてもこの本には書かれており(『捏造された聖書』 - leeswijzer: boeken annex van dagboek参照)、どのように分析すべきか(してきたか)という実例も豊富に載っている。ただし、写本の系統をどのように判定するかというカール・ラハマンらの方法については、さっと紹介する程度なので、ちょっと残念(無いものねだりというやつですな)。

以下、へぇ〜と思った点を抜き書き。

その1。古代において「ギリシア語が書ける」ということは、現代のそれとは規準が違う。紀元2世紀のエジプトの役人であるペタウス君の話:

…彼は、自分でちゃんと解った上で文言を綴っているのではなく、たんに前の紙の字形を見ながら写しているだけなのである。明らかに彼は、自分が書いている単純な単語の意味すら理解していない。にもかかわらず、彼は正式な村の書記なのだ! (p. 54)

ははは (^_^;; でも、重要な話だよな、これ。

その2。キリスト教は、ローマで公認される前にかなり迫害されたというけど、それに関する常識は間違ってるよ、という話:

多くの人は意外に思われるかもしれないが、キリスト教自体には、当時においても何ら違法性はなかったのだ。キリスト教は別に非合法な宗教というわけではなかったし、キリスト教徒も地下に潜伏したりする必要はなかった。迫害を避けるためにローマのカタコウムに潜んだりとか、魚のシンボルなどの秘密のサインを使ってお互いを見分けたなどという話は、たんなる伝説に過ぎない。 (pp. 249-250)

じゃあなぜ迫害されたのだろうか? それは、キリスト教徒は、当時の一般の人にとって相当怪しかったからである:

…しばしば言われるのは、キリスト教徒が夜闇に紛れて集まり、お互いに「兄弟」「姉妹」と呼び合い、接吻の挨拶を交わすというものだ。また、その礼拝では神の子の肉を喰い、血を飲むという。これを聞いて人はどう思うだろうか? まあ、最悪の状況を想像していただければ、当たらずといえども遠からずだろう。異教徒たちの主張によれば、キリスト教徒は近親相姦(兄弟姉妹による性交)と幼児殺害(子殺し)、そして人肉食(その肉を喰い、血を飲む)の儀式を行う。…キリスト教は極悪にして破廉恥なカルト宗教と見なされたわけだ。 (pp. 251-252)

だから、迫害したのは、一般市民。現代の新興宗教叩きとあまり変わりませんなぁ (^_^;;

その3。パウロの共同体においては、女性が大きな役割を果たしていたという。そのような聖書中の記述は男尊女卑の立場からよろしくないと思った書記たちによって改竄されたらしいが、それはともかく、パウロの次のような態度を著者は「アンビヴァレント」だと言う。

…パウロは男と女の関係において、社会変革を促していたわけではない――キリストの名において、「奴隷も自由な身分もない」と宣言していながら、奴隷解放を促しはしなかったように。その代わり彼は、(神の国の到来までの)「時は短い」のだから、誰もが産まれ持った自分の役割に満足すべきであり、地位の変化を求めてはならない――奴隷であろうと自由人であろうと、既婚者であろうと独身であろうと、男であろうと女であろうと、と言うのだ(『コリントの信徒への手紙一』七章一七−二四)。 (p. 231)

これは、所謂“批判仏教”の立場からは、決して「アンビヴァレント」なことではなく、むしろ当然ですな。平等思想がかえって、現実の差別状態を是認してしまうというのは、洋の東西を問わないということか。