純粋仏教

をを、ちび2号が高熱でダウン…。

それはともかく、「ウィトゲンシュタイン」ということで仏教への分析哲学的なアプローチなんじゃないかと勝手に想像して以下の本を(数日前に)読んだ。

純粋仏教―セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える

純粋仏教―セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える

しかし、私の予想は裏切られた (^_^;;

「純粋仏教」というタイトルにもう少し注意すべきだったかもしれない。これは、セクストスの『ピュロン主義哲学の概要』とナーガールジュナ『中論』(と後期ヴィトゲンシュタイン)の読解(というか、この本の大部分が引用で、氏の言葉とセクストスらの言葉との区別が曖昧である)を通じて、黒崎氏オリジナルの教理“純粋仏教”を解き明かすものである。急いで付け加えておくと、私は黒崎氏の態度を「非学問的だ」などと揶揄したいのではない。大げさに言えば、法蔵の『華厳五教章』がリスペクトされているように、黒崎氏のこの本もまたリスペクトされなければならない、と思っている。

セクストスやナーガールジュナを読む氏の態度は明確である。氏が間違い、矛盾だと判断したものはためらいなく修正してしまう。「『中論』はもっと純化されねばならないのだ」とも言う(pp. 182-183)。また、セクストスとナーガールジュナの思想的共通性を確信する黒崎氏は、以下のような「勝手な空想」もしてしまう。

ピュロンが「ものごとの真理は把握できない(不可知)ということ」と「判断の保留(エポケー)ということ」を哲学のなかに導入した、そのおそらくヒントを与えたインドの〈裸の行者たち〉が、インドの昔からの伝統としてブッダの時代にも存在し、ブッダも彼らから同じ思想を学んだのではないか。即ち、ピュロンの思想とブッダの思想には、〈裸の行者たち〉という共通の源泉があったのではないか。もしそうであるならば、ピュロン懐疑主義を奉じたセクストスとブッダの開いた仏教に論理的基礎を与えたナーガールジュナがほとんど同じ思想を持ったことは当然であるということになるだろう…。(p. 5)

このような態度は、一般の仏教信者にとっては噴飯ものかもしれない (^_^;; しかし、一宗派、一学派を興すような者の著作としては、まったく不自然ではない。噴飯ものだと思った他の宗派の方にはぜひ、黒崎氏に仏罰が下った、なんて伝承を作って流していただきたい。

ちなみに、この本は読み物としてはつまらない (^_^;; 小粋なエピソードが挟まってるわけでもなく、『ピュロン主義哲学の概要』と『中論』の引用とコメントが延々と続くので。