「研究」の範囲

方法と対象、研究と教育 - もろ式: 読書日記の続きではありません『ユリイカ』:喫茶店で学問を語る: やまもも書斎記ユリイカ「マンガ批評の新展開」特集号について、泉信行から〜その1〜 - ピアノ・ファイア宿題を出されたので〜何のための学問か? - はかとも(無縁彷徨)などへのお答えを書かなきゃいけないと思いつつ、まとまらないので放置状態です。すいません。

(...)

「専攻は何ですか?」とか「どんな研究してるんですか?」みたいなことを訊かれるたびに、相手の困惑を顧みずありのまま答えようか、当たり障りのない「○×学です」と言い切って自分も相手もごまかそうか悩み、それが表情に出したり「えーと、えーと、えへへ、なんて言えばいいかな」などと口にしたりするために、かえって相手を混乱させることになったりする。これはいろいろ原因があるように思うが、「研究」という活動の性質に関わるように思う。

asahi.com(朝日新聞社):急増する燃え尽き教師:1(新井肇教授) - 紙上特別講義 - 教育によると、

 もともと、教師はストレスを抱え込む宿命を背負わされているといえます。

 なぜか。東大の佐藤学教授(教育学)は、教職の持つ特性を次のように指摘しています。

 ひとつは授業中に私語が起きる、堂々と寝るなど、目の前の子どもたちから自分の授業への評価がじかに返ってくる「再帰性」。二つ目は教える相手が変われば以前はうまくいっていた態度、技術が必ずしも通用しない「不確実性」。前の学校では生徒から人望のあった教師が、転勤後に攻撃の的となる例も少なくありません。三つ目は数量化できない仕事はゴールが見えず、プライベートな領域にまで際限なく仕事が入り込んでくる「無境界性」です。

 そのため、国際労働機関(ILO)がかつて指摘したように「教師は戦場なみのストレスにさらされている」のです。

だそうである。ここで言われている「教職」は、高等学校以下の教員を念頭に置かれているような気がするが、大学教員にもあてはまることは多い。「研究」はまさに、3つ目の「無境界性」の最たるものであろう。

私などは夢の中でもいろいろ考えたりしているので、「プライベートな領域」なんてものがそもそも存在しない気がする(だから、睡眠があまり休息にならない (^_^;;)。マンガやDVDなども、純粋に楽しみのために買ったりしているものはほとんどない――というか、意識的に耳目に触れるものはほとんどすべて、自動的に何らかの「研究」的関心と結びつけられ、観察と分析の対象となり、場合によってはその結果を論文やブログ、授業などでアウトプットしている。

しかしながら、多分、世間ではそれらのほとんどを「研究」とは言わない。白衣を着て顕微鏡を覗いたり、机の上に洋書を広げて読んだり、調査する価値のある場所を探検したりするような(ベタベタすぎるが (^_^;;)、ある特別な固有の知的な活動のことを「研究」というのだろう。(続く)