へうげもの

昨日、「キリシタンの見た京都」という題でしゃべるために浜松〜静岡を巡業したのだが、その際、機会があったらネタにしようと思って『へうげもの』を持っていった。古田織部のマンガである。

へうげもの(1) (モーニングKC (1487))

へうげもの(1) (モーニングKC (1487))

今や日本の伝統の代表みたいな感じになっている茶道(茶の湯)の成立においては、キリシタン・南蛮文化や、それとともにやってきた中国・朝鮮文化を積極的にとりいれていた(かもしれない)ということが、今回のお話の柱のひとつである。利休七哲のほとんどは、高山右近をはじめとするキリシタン大名ないし親類にキリシタンがいる大名だし。

しかし、お客さんは全体的にマンガを読まない感じの方々ばかりだったので、紹介するのは控えてしまった (^_^;;

ちなみに、キリシタンの側は、古田織部らが狂った茶道具の文化を理解できなかったようである。イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが1583年に書いた『日本管区及びその統轄に属する諸事の要録』*1には、日本人の茶道具や「鳥や樹木を墨で描いた紙」(水墨画のことでしょうな)、日本刀に対して大金を払うことを理解できないと言う:

彼等の作品を見ることも、少なからぬ驚異である。我等にとって児戯に類し、笑い物であるそれらの作品が、逆に日本では主要な財産であり、彼等はそれらを我等の装身具や宝石のように珍重する。

余計なお世話だ (^_^;;
まあ、でも、彼らヨーロッパ人の感覚もわからんでもない。いくら高い技術と幸運に恵まれたレアなものとはいえ、モノによっては一国一城と等価とか言われると、(「価値」ってのは文化相対的、物語依存的なものであるにせよ)現代人として首をかしげたくなったりもする。

ところでこのヴァリニャーノは、このような感想を日本人にぶつけたことがあるらしい。それに対する日本人の答えがちょっとよい答えである:

物質そのものに何の価値もないそれらの品に、なぜかかる大金を払うのかと私が尋ねると、彼等は、我等が大金を出してダイヤモンドやルビーを買うのと同じ理由からだと答える。日本人が購入して珍重するものは何かの役に立つものであって、まったく何の役にも立たない小石を買おうとするヨーロッパ人の考えよりは、日本人が器類や武器等に多額の金を支出しようと考えることの方が非難すべき理由は少ない、と言う。

誰だかわからんけど、よく言った (^_^;;

*1:[asin:458280229X:detail]