歴史家の散歩道

いつも知的な刺激を頂いている北條勝貴さんから、ご恵贈頂きました。

歴史家の散歩道

歴史家の散歩道

上智大学史学科の教員による論文集。以前、同じような論文集*1を作って、史学科の一回生の自習ゼミのテキストとして使っていたのだが、学生の方から「もっと内容の新しいものが欲しい」という要望があったらしい。『歴史家の散歩道』というタイトルも学生がつけたとのこと。こういう学生と教員のインタラクションは、とてもよいですね、うらやましいです。

内容的にも得るところが大きいです。北條さんの「〈積善藤家〉の歴史叙述 ―『周易』をめぐる中臣鎌足藤原仲麻呂―」の冒頭に、

「東アジアにおける歴史叙述の成立には、卜占や予言が密接にかかわっていた」などと書くと、賢明な読者諸氏の中には眉をひそめる方があるかも知れない。しかし、それは紛れもない事実なのである。(p.2)

とあるが、歴史叙述というものが「事実」を書くものではなく、あってほしい(ほしかった)ことを書くものである、ということを改めて考えるための非常に貴重な視点を提供してくれている。予言とは、未来におこることを知る技術ではなく、望ましい未来を実現するための遂行的なテクノロジーなのである(というのは内田樹さんの受け売りであるが)。

以上、前半では『周易』坤卦に基づくスローガン〈積善藤家〉の成立について考察し、後半では、その内容を誰よりも熟知していた藤原仲麻呂による、「大織冠伝」叙述の一端を検討した。ともに、近代史学の視点で価値判断すれば、捏造とも歴史修正とも位置づけられかねない危うさを孕む。しかし、恐らくは古代の人々にとって、歴史は、私達の考える以上に現在と密接に結びついていた。何百年も以前から伝承され鍛え上げられてきた、叡智ともいえる歴史観で過去をデザインし直すことは、そのまま現在の自分を介して未来を方向付けてくれる。古代的な歴史叙述とは、ゆえに卜占や予言と不可分の関係を持っていたものと考えられる。(p. 25)

この論文の中では触れられてないけれど、当然のことながら、歴史叙述の問題は歴史家自身に跳ね返ってくる。自主ゼミの中では、史学科の学生(の一部)を悩ませることになるのだろう (^_^;;

あと、川村信三氏の「「史実」とは何か ―安土城天主(守)復元「論争」の顛末―」も(まだ読んでないけど)おもしろそう。情報歴史学コースの4回生で、まさに安土城天主の復元について取り組む学生がいるし、「復元」というテーマは情報歴史学の大きな方法論的問題として考えなければならない。そのためにも有益であると思われる。

*1:[asin:4324070423:detail]