方法と対象、研究と教育 続きの続き

id:moroshigeki:20080529:p2 の続き。

“批評”っていうものがいまいちピンと来ない私があれこれ云々する資格はないのだが、東浩紀×伊藤剛対談135〜137頁あたりの「批評という賭け」と題された一連の議論を、教育の問題として見るとおもしろい。

伊藤剛さんは東浩紀氏と夏目先生の間にあったギャップを埋めることで、ニッチとしての価値が生じるのではないか、という狙いで『テヅカ〜』を書いた。東氏は、そのような論客間の布置を変えてしまうような「賭け」的な試みこそ批評であるし、そういう批評を通してこそ「次の世代が育つ」と評価する。逆に「大学内で制度化されると、ますます賭けの要素は少なくなっていくでしょう」と述べるが、伊藤さんは「いや、そうでもないと思う。大学での研究のほうが、思いがけないところから面白い仕事が出てきてるんじゃないかな」と述べ、潘郁紅「日本児童雑誌における視覚物語の様相 ―『少年倶楽部』を中心に―」*1を紹介し、「われわれがつい自明なものとしがちな「マンガ」という枠組みを再考する手がかりにもなる」と高く評価している。

潘郁紅さんの発表を聞いていないのではっきりとしたことは言えないが、『比較文學研究』第89号の「編輯後記」に「その書誌的博捜を尊びたい」と書いてあることからも、東氏の言うような「賭け」を行っているとは思えないし、東大の先生もそんな教育はしてないだろう。恐らくは実証的で堅実な研究なんだろうと思う。標準化と教育によって人材の再生産を繰り返すことで得られるのは、ひとつは網羅性である。別の言葉で言えば、ニッチを潰していく作業だ。網羅性が高まり、ある一定水準を超えると、「属人的なパフォーマンス」や「賭け」などなくても「自明なものとしがちな枠組みを再考する」ようなところまでたどり着くことができたりする(場合がある…といいな)。「巨人の肩に乗る」ってやつですな。

ただ、伊藤さんが「大学での研究のほうが」と言うのは、「枠組みの再考」という出力だけを見て、簡単に批評と大学をつなげてしまっているような気がする。「枠組みの再考」という出力を得るためのコストパフォーマンスは、おそらく大学方式は圧倒的に分が悪いだろうし (^_^;; 批評が「枠組みの再考」を目的とするならば、網羅性から生まれるそれは結果、あるいは副産物にすぎないだろう。「次の世代」がそれぞれにおいて学ぶ方法は全く異なるのである。

(続く…かどうかは明日の体力次第)

*1:[http://www.kyoto-seika.ac.jp/hyogen/manga-gakkai/katudou/taikai/2006taikai/index.html:title=日本マンガ学会第6回大会]で発表されたみたい。論文は[http://www.todai-hikaku.org/records/2007/05/89_special_issue_religious_lit.html:title=『比較文學研究』第89號]かな。