方法と対象、研究と教育 続き

方法と対象、研究と教育 - moroshigeki's blogの続き。

先の「検証して欲しかったらアカデミズムに来ればいいじゃん」という物言いは、特に大学教員の私が言うと、多分とても傲慢に聞こえるんだろうと思う。私としては、大学とか学会というような制度の外側にいる人は排除する、という気持ちはさらさらないし、現状の大学とか学会とかをみると、本来の目的のひとつである学問の再生産がどちらかというと悪い方向にスパイラルしている気もするので (^_^;) そういう意味では、むしろ黒船とか外圧大歓迎!的な部分もある。

ここで私が理想化して言っているアカデミズムというのは、世代を超えて継続した議論を行い、また外部に対して議論を開くために必要な方法論やプロトコル、フォーマットなどを標準化する制度のことである。モデルとしてのアカデミズムが実装されたのが、現在では大学とか学会とかしかないというだけであって、それ以外の実装方法もあるはずだ、というのが人文情報学的な問題意識のひとつとしてあったりするのだが、それはここでは関係ないので割愛(がんばれ、ぱどれ)。マンガ研究は、現在、マンガという対象の持つ人気によって人が集まり、夏目先生→泉さんのようなライン(これは泉さんが「マンガにおける視点と主体をめぐって」の冒頭で告白していること)が自然発生しているのに依存しているように(門外漢には)見える。泉さんの議論を受け継いでくれる人を自然発生に委ねていいのだろうか?というのが「検証して欲しかったらアカデミズムに来ればいいじゃん」の意図である。ただ、中の人として、アカデミズムはそれほど人を幸福にしないということは申し添えておきたい (^_^;)

夏目先生は学習院の先生になって(狭い意味での)「弟子」ができる可能性ができた。逆に、自然発生でもいい、というのも選択肢のひとつだろうと思う。制度として守らないと、伝統工芸の職人さんみたいにすぐに滅びてしまう学問分野もあるわけだが、マンガだったらたぶん、しばらくはこの活況が続くだろうし。

ところで、東浩紀×伊藤剛対談を読んでいておもしろかったのが、伊藤さんが表現論という形で議論を開こうとした結果、「秘教」扱いされるようになった、という議論である。先に述べた、外部に対して議論を開くための方法論の標準化というのも、たとえば2ちゃんねるなどの「ググレカス」を見れば分かるように、それを知らない人にとっては排除の論理として働く。アカデミズムの場合、学ぶべき方法やプロトコルが複雑化、高度化し、大学という制度で何年も勉強することが結果として必要になってしまっているため、標準化における排除がそのまま大学や学歴などによる排除と重なってしまう点が問題なんだろう。逆に言うとマンガ研究というのは、標準化すべき方法論が確立されていないため、例えば「『テヅカ・イズ・デッド』を読んでから来い、カス」みたいなことが言えないし、その結果参入障壁が低くなっている。

今「『テヅカ・イズ・デッド』を読んでから来い、カス」と書いたが、実際に標準化が進んでいった場合、読むべきものとして『テヅカ・イズ・デッド』は多分不適切で、代わりにより体系化され教育的配慮が行き届いた“教科書”のタイトルが入るはずである。伊藤剛さんは「『テヅカ・イズ・デッド』 のそれから」で、大学その他でのマンガ表現理論の教育の苦労?を書かれているが、まさに教科書とは、このような再生産の現場で生み出され、用いられ、鍛えられるものである。教科書というのも(アカデミズム同様)善し悪しがあって、ある種の権威づけの装置として働き、利用者の体系に対する批判的精神を著しく損ねる原因にもなるのは周知のとおりであるが (^_^;) 教科書の存在はその研究領域の標準化がある程度完成していることの証左にもなるのではないかと思うのである。

このような学問の再生産と方法の標準化を制度として実現した成功?例としては、(これも外部からの印象論であるが)蓮實重彦御大が立ち上げた東大の表象文化論の講座だと思う。ここは方法論の基礎部分にフーコーを据え(もちろん他にもいろいろぐちゃぐちゃ混ざってるけど)、その上に小林康夫氏らが“教科書”を積み重ねていき、後継者がたくさん育って、その一部は他の大学の教員となり、さらに後継者を育成している。表象文化論やそれをやってる人たちの良し悪しはともかくとして (^_^;) こういう風に制度を実装した蓮實先生は偉いと思う。東大総長になるだけのことはある、というか、何というか。

(さらに続く)