方法と対象、研究と教育

『ユリイカ』2008年6月号をぱらぱらと読んでいる。

ユリイカ2008年6月号 特集=マンガ批評の新展開

ユリイカ2008年6月号 特集=マンガ批評の新展開

その中でまず気になったのは以下の記事:

いずれも、マンガを対象とするディシプリン(各記事の中では「マンガ批評」という言い方をしていることが多いけど)について言及されていて、自称「ディープな人文情報学」なんてものを立ち上げたいと思っている私としては大変興味深く読んだ。

以下、議論を単純化するためにちょっと理想論過ぎるようなことを書くが、そのあたりはご寛恕されたい。

私見では、「マンガ学」みたいなものが成立する要件としては、対象(マンガ)だけでなく、それを解釈するための固有の方法論が必要である。そして誤解されがちであるが、学問の固有性は(「マンガ学」とか「仏教学」とかいう名前に反して)対象よりも方法の方が重要ではないかと思う。もちろん、対象と方法とは相互に依存して容易には分離できるものではないし、また、対象に比べると方法というのは流行があったり変化しやすいものだったりするわけだが、全然噛み合ない方法が併存するということは基本的にはなく、以前の方法に対するアンチテーゼとして別の方法が出てくる、みたいな形で連続しているのが普通だろう。

この連続性こそがアカデミズム(≒「〜学」)の強みでもあり弱みでもある、というのが宮本大人氏の次の発言から読み取れる:

宮本 …泉さんの本の書き方は、明らかにアカデミシャンにはできないものです。体裁として学術論文じゃないという以前に、人文社会科学の文脈というものとほとんど関係なく書いている。…でも、僕は基本的にはそれは良いことだと思います。つまり、アカデミズムにおいてはこういうテーマをいまアカデミックに言いたいのなら、あれとこれを読んでこういう理論を踏まえないと駄目ですよ、というのをいっぱい勉強させられるわけです。もちろんその必要性があるからですけど、弊害としてそれによって文脈がある程度規程されてしまうというのがある。…

ここで言われている「文脈がある程度規程されてしまう」というのが上でいう方法の「連続」性であろう。「規程」程度であればともかく、人文学の中にいると「束縛」乃至「拘禁」に近い感覚にとらわれる(囚われる? (^_^;;)ときもあり、デメリットばかりのような気もするのだが、もちろんアカデミズムがこういう面倒な仕組みをとっているのはメリットがあるからである。

アカデミズム、あるいはディシプリン(≒調教!)のメリットとは何かと言えば、第一には研究が再生産されることであろう。つまり、どんな研究であれ、それを発表すれば完結するものではなく、それが評価され、批判され、乗り越えられていくことによって、わからないことがわかったり、新たな問題が発見されたりして、その学問領域が全体として深化し発展していくための一助になることによって、はじめて完結する。一人の天才に依存するのではなく、集団で問題を解決していく。それを制度として行っているのが大学でありアカデミズムである。大学で研究者が教育も行っているのは、かっこいいことを言えば(現実には全然そんなことはないが)自分を、あるいは自分が所属している学問分野を、批判し発展してくれる後継者を育てるために行っているのである。

これに関連して、同じ対談で泉氏が、

 僕がアカデミズムに希望するのは、単純に僕の書いたことが正しいのかとか、実際は誰が最初に言い出したことなんだとか、そういうことをいろんな角度から検証してください、ということなんですね。

と述べているのは、「アカデミシャン」である(あまりそういう自覚はないが (^_^;;)私から見れば“虫のいい話”である。もちろん、泉さんの非常に評価の高い仕事が出てきた、従来のマンガ研究や現在のブログでの議論等の様々なコンテクストなどを考慮すると、一概に「検証して欲しかったらアカデミズムに来ればいいじゃん」みたいに胸を張って言うことはとてもできないのであるが。ただ、アカデミズムの動きの鈍重さだけを指摘されるのは、現在のマンガ研究の持つ構造的な問題を隠蔽することになるのではないかと思ったりもしたので、ちょっと恥ずかしいけどこんなことを書いて見た次第である。その意味で、逆に、伊藤剛さんの「『テヅカ・イズ・デッド』 のそれから」に見える教育者の視点は、とても共感が持てるのである。

(続く)