古典キャラクター論の可能性

『アジア遊学』No. 108の特集は「古典キャラクター論の可能性」だったりする。

アジア遊学 NO.108

アジア遊学 NO.108

ここに収録されているいくつかの論文で『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』が引用されていることからも、『テヅカ〜』が起爆剤となって近年著しく発展しているキャラクター論の影響力の大きさがわかるが、本書収録の各論文では残念ながらそこでの成果がきちんと消化されていない/理解されていないようである。

例えば巻頭の相田満さんの「序言 古典キャラクターの可能性」では、

この「キャラ」という言い方については、キャラクターが自律化する前のメタ・キャラクターであると、特別の意味性のあることを主張するためにKyaraをあてる提言(伊藤剛テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』、NTT出版、二〇〇五)もあるほどで、もはや「キャラクター」という言葉が原語表記Characterを離れて、日本語として独自のニュアンスを膨らませながら定着しつつあることを示す好例といえよう。(p. 11)

と述べられているが、この「キャラ」の解釈は誤解ではないかと思う(もしかすると、井上康氏の「マンガ言語世界が生み出した<超>記号・キャラについて ―伊藤剛著「テヅカ・イズ・デッド」によせて」に基づいた誤解かもしれない)。「古典文化と「キャラクター」との接点を求めるには、創作と鑑賞、この二つを両立させる視点の恢復が今後は不可欠となるのではないか」という問題意識には意義があると思われるだけに、理論部分が弱いのは残念である。

他の論文にも、物語を超えてキャラクターが再利用される事例などが見られ興味深いが、それが従来のキャラクター論を修正するための議論に発展したり、古典キャラクター論という独自の方法論に昇華したりするようなところまでは至っておらず、今後の展開が期待される。

ちなみに、これを読んで小池一夫氏の『キャラクターはこう創る! (小池一夫の漫画学―スーパーキャラクターを創ろう)』での「ブッダは最大のキャラクター」という発言を知ったが、これは至言 (^_^;;