データベース、パクリ、初音ミク

思想地図 vol.1』のキャラ/キャラクター論に関する論文斜め読みの続き。

思想地図〈vol.1〉特集・日本 (NHKブックス別巻)

思想地図〈vol.1〉特集・日本 (NHKブックス別巻)

増田さん曰く「ほんまにへろくて申し訳ない…」とのことですが*1、個人的にはたくさんの示唆を得ましたです。

マンガとかの二次創作とDJ的な音楽実践との共通性については、これまでも何度か指摘されてきたわけだが、増田さんは両者の共通性を認めつつも、違いについていくつか指摘しており、今後の議論のとっかかりとなるのではないかと思う。

例えばこの論文の直前にある伊藤剛さんの「マンガのグローバリゼーション」においては「単純な線画で描かれるがゆえに」(p. 141)キャラが強い存在感、生命感を持つと述べられている(『テヅカ〜』で示された議論の再説)。これは要するに単純な線画による図像が多義性(例えばウサギである耳男と人間である耳男)を受け入れる“器”(「コーラ」と言い換えてもいいかも)として機能しているのである*2。増田さんは脚注2においてパースの記号論における三分類を用いて説明されているが、伊藤氏の用語における「マンガのおばけ」のような表現は、インデックス的である音楽(というか音)においては確かに難しいような気がする(初音ミクは、図像表現も含めた広い意味での「音楽」活動において、“器”を提供することができた例なのかもしれない*3)。

あと、最近の過剰なパクリ批判について、「情報の束としての「私」」という人格観が、近代の“何人にも犯し得ない「私」”という人格観と結びついて(とは増田さんは言ってないかもしれないけど)、

私の人格的主体が「パクリであるかもしれない」恐怖は、逆に他人のキャラクターの類似に対する過剰な攻撃性を生むだろう。(p. 165)

と指摘するのは重要な気がする。

ついでに、p. 157でコミュニティにおける「循環的な構図」を指摘しているのもポイント高し。

*1:http://d.hatena.ne.jp/smasuda/20080424#p1

*2:“器”の極端な例として固有名(例えば「若島津」という固有名以外では『キャプテン翼』とまったく接続していない同人誌とかがあるらしい)がある。もうちょっと一般化すれば複数の異なるコンテクストや可能世界を到達可能にするものはすべて“器”と見なすこともできるようにも思う。それがシンボル的な記号に特有なものなのか、それとも他の種類の記号にも見られるものなのかは、要考察。

*3:CGなどのデジタル技術によってインデックスであった写真、映画(論)に危機が訪れてしまった状況と、そこにおける身体性の問題については『[asin:4409100246:title]』の藤井論文、石田論文が参考になる。