ホフスタッター師のクヌース先生批判

文字や文字コード、フォント関係の議論であまり指摘されていない気がするのでメモ的に書いておくと、GEB*1で有名な自己言及ヲタのホフスタッター師は、あまり有名じゃない?『メタマジック・ゲーム』*2のなかでクヌース先生のMETAFONT論文の批判を行っている。特に第13章「メタフォント、メタ数学、そしてメタ思考」とその周辺。

クヌース先生の本*3もホフスタッター師の議論もちゃんと読んでないので単なるメモなのだが、クヌース先生は、

  1. ありとあらゆる「A」という文字の形の下に唯一究極的な抽象形「A」が存在し、それを有限個のパラメータをもったアルゴリズムとして記述できる。――有限個のノブのついたソフトウェア機械と呼べるようなものの存在。
  2. そして考えうるすべての個々の「A」は、この機械のノブをある値に合わせることによって得られるということ。

と主張しているらしい(p. 248)。唯一究極的な抽象形「A」の存在を認めるというのはUnicodeをはじめとする文字コードの発想と重なるのであるが*4、その表現が「有限個のノブのついたソフトウェア機械」というのが、さすがクヌース先生ってな感じである。

それに対してホフスタッター師は、色々な論点を提供しているという意味でクヌース先生を評価しつつも、

要するにすべての文字に関して、他の文字との関係における相互的な知識が必要とされるのだ。「文字はたがいの本質を相互に規定し合う」ということは、そもそも一つの文字のあらゆる可能性を単独の構造で表現しようという企みは、失敗に終わらざるを得ないということを意味している。(pp. 268-269)

と批判する。つまり、確かに「有限個のノブのついたソフトウェア機械」によって無限の字形が作れたとしても、ある文字用の「有限個のノブのついたソフトウェア機械」によって他の文字との違いを記述することはできない、ということである。

では、ある文字をその文字だと決めている(読む人にそう読ませている)ものは何か。ホフスタッター師は「文字の精神」という、少し比喩的な表現で説明しようとしている。これは伊藤剛さんのキャラ/キャラクター論や小形さん「束縛」論*5にも関係することだと思うので、少し長めに引用しておく。

「文字」と「精神」という言葉は「法の条文 (letter of the law)」と「法の精神 (spirit of the law)」という言葉の対比とか、私たちの法律体系では裁判官や陪審員が前例にもとづいて決定を下すようになっていることを思いださせる。すなわちどんな事件でも陪審員によってなんらかの形で前例に結びつけられなければならないのである。ある結びつけ方を支持し擁護するのが、検事と弁護士の役目ということになる。彼らはそれぞれ、ある結びつけ方が他のしかたよりもはるかにすぐれていると陪審員が思うように仕向ける。陪審員の決定は満場一致でなければならないと考えられているのはとてもおもしろい。比喩的にいえば、意見の「相転移」または「結晶化」が起こらなければならないということになる。決定は最大多数とか同意というような形でなく、全体の一致(unanimity、この言葉は語源的には一つの魂を意味する)をしっかりと示さなければならない。…

法律においては、現存する法文や法令などをどれだけ集めたところで、発生しうるすべての事件をカバーしきることなどけっしてできるものではない。(これはすべての可能な「A」をカバーするような規則のセットなど存在しないという事実を思いださせる。)法体系は明確に定まった、持ち合わせの判例や法規よりもずっと広範囲をカバーする経験をもった人々が、たんにいまあるカテゴリーを分類に用いるだけではなく、カテゴリー化や対応付けの全過程において力を発揮するという考えにもとづいている。そうすることによって融通のきかない規則に縛られることなく、自由で、不正確ではあるがより強力な原理にのっとって判定を下すことができるのである。いいかえれば、この能力によって人は法の条文に縛られずに、法の精神を実行することができる。ドナルド・クヌスの仕事や、芸術的なデザインと機械化できるものとの関係を探求するその他の研究によって明らかになったことは、規則と原則、文字と精神のこの緊張関係である。私達はコンピュータの可能性を見きわめる上で、たいへん重要で興味深い時期にさしかかっている。そしてクヌスの論文は、深い考察を必要とする多くの論点を提供している。 (p. 274)

「法の精神」=キャラ、判例やら法文やら=キャラクターって感じになると思うが、陪審員の満場一致で判決が出た(=「法の精神」に基づいて、その事件が「なんらかの形で前例に結びつけられ」た)場合、その判決はそれ以後の裁判の「前例」になるという点、すなわち自己書き換え的な活動である点に要注目。

ついでに言えば、文字に対するこのような考え方は、スコールズ師の『記号論のたのしみ』*6の「まえがき」における次の言葉を思い浮かばせる。

記号論は普通記号の研究と定義されているけれども(これはギリシャ語の語源との関係から)、実際問題としてはコードの研究に、つまり、人間がある出来事や実体を意味を持つ記号として知覚できるようにするシステムの研究になっている。

要するに文字であれキャラクターであれ、その形やら属性だけで議論してもダメだってことを、先人は言ってくれているのである、と思う。

*1:[asin:4826901259:detail]

*2:[asin:4826901267:detail]

*3:[asin:4756101941:detail]

*4:拙稿[http://moromoro.jp/morosiki/resources/20040326/index.html:title=「Unicodeのcharacter概念に関する一考察」]参照。

*5:「束縛」という視点について(1)〜(3)(id:ogwata:20080302:p1, id:ogwata:20080303:p1, id:ogwata:20080305:p1)

*6:[asin:4000265369:detail]