比蘇自然智再考

昨日、元興寺文化財研究所で開催された南都文化研究組織第5回シンポジウムで、「比蘇自然智再考」と題して発表してきた。前のエントリ(http://moroshigeki.hateblo.jp/entry/20080131/1201780761)で触れたことでもあるので、以下、レジュメ抄録(一部追加あり)。ご批判を頂ければ幸いです。

1. 問題の所在

現在、奈良県吉野郡大淀町比曽上比曽の世尊寺の地には、古代に吉野(芳野)寺、比蘇寺、現光寺などと言われた寺院の遺跡がある。

この寺については、薗田香融氏の論文「古代仏教における山林修行とその意義」*1の影響が古代史、仏教史などに特に見られ、自然智=虚空蔵求聞持法を修行する場所、というイメージが強い。本報告では、近年発表されている薗田説への批判を紹介するとともに、新たな解釈を提示できればと考えている。

2. 自然智と生知・虚空蔵求聞持法

2.1 薗田香融説とその批判

頁番号だけの引用は薗田論文。

  • 「…比蘇山寺には神叡の入山以来、「自然智宗」とよばれる山林修行の伝統が形成され、元興寺法相学派の一派がその中核体となっていたことが結論される。」(31頁)
  • 「比蘇山寺における山林修行は、後天的な学習によって獲得される「学知」と対照せられるような、「生知」すなわち「生まれながらの知」を獲得することを目標としたのだろう。」(34〜35頁)
    • 「…『顕戒論』や『法華秀句』における神叡らの「自然智」が、自学自研を前提として仏教の奥義に精通することなのであるから、これらの「自然智」が、「生まれながらに智恵を備えている」という意味での「生知」と同義に解することはできない。ところが、『依憑天台集』における「生知」は、「外国に留学することなく仏教の奥義に精通する」という語義に転用されているのであるから、語義的には一見『顕戒論』や『法華秀句』に見出される「自然智」の概念に共通しているように思われる。しかし、実際には微妙な差異が存在することに気づかなければならない。」*2
  • 「…「自然智」の獲得の方法として最もふさわしいものは…「虚空蔵求聞持法」であろう。…いったん耳に聞いたことは永久に忘れないこと、今流にいえば勝れた記憶力の獲得ということである。「自然智」が「生知」、すなわち、学習の前提となるような智慧といわれたことが思い出される。」(37〜38頁)
    • 「「自然智」の…原語はsvayaṃbhujñānaである。svayaṃbhuはself-existing, independentの意であるが、ブッダのエピセットとして用いられるのが普通であり、従って、svayaṃbhujñānaはブッダの智恵を意味する。しかし、漢語「自然智」と言うと、「自然に得た智慧」の意に解されるのが素直であろう。その場合、「自然」とは、原則的に他に依存しない、自立的な、という意であり、svabhāvaなりsvayaṃbhuなりの訳語として適当と言える。それ故、「自然智」と言えば、他者によらずに、自己自身で得た智慧の意であり、いわゆる無師独悟の意に他ならない。実際、中国の文献でもその意で用いられている。…平安期になれば、智慧の獲得と言えば虚空蔵求聞持法が思い浮かぶための改変と思われ、無理に神叡に虚空蔵求聞持法を結びつけなければならない必然性は全くない。」*3
    • 参考「荷沢は経典にない言葉を添加している場合がある。例えば「又経文所説、衆生有自然智無師智」(第三八節)という。自然智無師智は『法華経』(大正蔵九、一三b)に出る言葉であるが、如来について説く言である。しかるに荷沢は「衆生」の二字を添加してしまって、衆生には自然智無師智があるとする。仏性及び頓悟とからんで出てしまった語であろうが…」*4

末木氏、前谷氏らの批判は妥当であると言える。しかし単なる「自学自研」「無師独悟」なのであれば、比蘇がその修行の地に選ばれた必然性が理解できない。次に、どうして比蘇がそのような智慧を得ることができる場所となったのか、考えてみたい。

3. 「山寺」としての比蘇寺

3.1 薗田説
  • 「古代仏教の本すじは、朝廷や貴族のいとなむ官寺・氏寺を中心として発展したが、これらとは別個に、幽邃な深山に、僧尼が自身の「精進練行」のためにいとなんだ山林寺院と、そこを根拠とする山林仏教の流れが存在した。山寺とか山房とかよばれる山林の練行処には「浄行者」とよばれる山林修行者が居住していたわけで、その数は、官寺の僧房に常住する僧尼に比べて決して小さいものではなかった。」(27頁)
  • 「「求聞持法」の分別処法によれば、空閑静処・浄室・塔廟・山頂・樹下という五つの条件が列挙されている。吉野川を眼下にのぞみ、幽邃な深山にかこまれ、さらに虚空蔵の透彫を鋳付けた塔のある比蘇山寺は、求聞持法の修法場として、最も好適な地理的環境にあった。」(41頁)
    • 「所謂広範囲の桧前地方には、倭漢系渡来氏が溢れんばかりの状態で居住していたという。」*5
    • 「比曾の後背地である高取山をも含めた桧前地方及び今木郡一帯にかけて、倭漢系渡来氏族の居住及び利害地であり、その南限は吉野川で区切られていたのではないかと考えられる」*6
  • 「…古代の山林修行は、ふつういわれるように私度僧や民間的な呪者の独占するものでなかった。そして、また山寺や山房の中心とする山林仏教は、官大寺や宮廷の国家仏教に対立する性質のものでなく、むしろそれらと切離すことのできない深い結びつきを持っていたといわねばならない。神叡・道慈のごとき「南都六宗」の代表的な学匠が「求聞持法」という密教的な山林修行に、それもかなり熱心な態度をもって、打込んでいたことは、今まであまり注意されなかった側面であろう。」(47頁)
    • 参考「比蘇山寺は、当初吉野地方に於ける唯一の寺である故に吉野寺、放光樟像を安置する寺という意味から現光寺と呼ばれた。吉野の地名には二つの意味があり、吉野比蘇山寺の吉野(吉野川北岸の地)と、吉野川南岸の金峯山という吉野である。古くは北岸の比曾の地は「吉野」として脚光を浴びることも多かったが、一方の南岸金峯山の神奈備を中心とした吉野も早くから山岳修行(原始修験道)が盛んであり、次第に吉野の名は金峯山に集約されつつあった。」*7
  • 「…暗誦を学解の埒外に置こうとする考え方自体がすでに現代的な思惟なのである。古代の学問では、暗誦と解義が混沌未分のまま存在していたのである。」(50頁)

従来(上の薗田説に限らないが)山林修行や山岳仏教をめぐる議論においては、山岳を空閑処と見るか、山岳信仰の修行者の集まる場所と見るかで、混乱が見られる。「所謂広範囲の桧前地方には、倭漢系渡来氏が溢れんばかりの状態で居住していたという」「比曾の後背地である高取山をも含めた桧前地方及び今木郡一帯にかけて、倭漢系渡来氏族の居住及び利害地であり、その南限は吉野川で区切られていたのではないかと考えられる」という地域の中にあった比蘇寺は、空閑静処とは言えないのではないか(後に見る比蘇に仏像を隠すという話も、人がいないからではなく、〔有力な〕人がいたからではないか)。

3.2 仏菩薩と会える場所としての比蘇寺

日本書紀欽明天皇十四年(五五三)五月には、比蘇寺の本尊の縁起(放光樟像縁起)とも言うべき*8記事が掲載されている。

夏五月戊辰朔、河内国言「泉郡茅渟海中有二梵音、震響若雷声、光彩晃曜如日色」。天皇心異之、遣溝辺直、入海求訪。是月、溝辺直入海、果見樟木浮海玲瓏、遂取而献。天皇命画工造仏像二躯。今吉野寺放光樟像也

これと同様の説話が『日本霊異記』上巻・信敬三宝得現報縁第五にも見える。

大花位大部の屋栖野古の連の公は、紀伊国名草郡の宇治の大伴の連らが先祖なり。天年澄情にして、三宝を重みし尊びき。

本記を案ふるに曰く、敏達天皇のみ代、和泉国の海の中にして楽器の音声ありき。笛・箏・琴・箜篌等の声のごとし。あるときには雷の振ひ動けるがごとし。昼は鳴り夜は耀き、東を指して流る。大部の屋栖古連の公、聞きて奏す。天皇、嘿然りて信としたまはず。更に皇后に奏す。聞しめして連の公に詔りて曰く「汝往きて看よ」とのたまふ。詔をうけたまわりて往きて看るに、実に聞きしが如くに、霹靂に当りし楠ありき。還り上りて奏さく「高脚の浜に泊つ。今、屋栖、伏して願はくは、仏像を造りたてまつらむ」とまうす。皇后詔りたまはく「願ふ所に依るべし」とのたまふ。連の公、詔をうけたまはりて大きに喜び、嶋の大臣に告げて詔命を伝ふ。大臣もまた喜び、池の辺の直氷田を請けて仏を雕り、菩薩三躯の像を造りまつる。豊浦の堂に居きて、諸人仰ぎ敬ふ。

然るに、物部の弓削の守屋の大連の公、皇后に奏して曰く「凡そ仏の像は国の内に置くべからず。猶し遠く退けたまへ」とまうす。皇后聞しめして、屋栖古の連の公に詔りて曰く「疾く此の仏の像を隠しまつれ」とのたまふ。連の公、詔をうけたまはり、氷田の直をして稲の中に蔵さしむ。

弓削の大連の公、火を放ちて道場を焼き、仏の像をもて難破の堀江に流す。屋栖古に徴りて言はく「今、国家に災ひを起こすは、隣国の客神の像を己が国の内に置くによる。斯の客神の像を出すべし。速忽やかに豊国に棄て流せ」といふ。客神といふは、仏神の像ぞ。国史は略して蕃神と作る。固く辞びて出さず。弓削の大連、狂ひたる心に逆しまなる謀を起し、傾けむとて便りを窺ふ。

爰に天また之を嫌み、地また之を悪み、用明天皇のみ世に当たりて、弓削の大連を挫きつ。則ち仏の像を出しまつりて、後の世に伝えたり。今の世に、吉野の比蘇の寺に安置して、光を放ちたまふ阿弥陀の像、これなり。

同様の記事は、『聖徳太子伝暦推古天皇三年(五九五)夏四月条や『今昔物語集』巻十一・建現光寺安置霊仏語第廿三にも見られる。

ところで、虚空蔵求聞持法との関連でしばしば引かれてきたものとして、『三教指帰』冒頭の空海の神秘体験がある。

爰有一沙門呈余虚空蔵聞持法。其經説、若人依法誦此真言百万遍、即得一切教法文義諳記。於焉信大聖之誠言、望飛燄於鑽燧、躋攀阿国大瀧嶽、勤念土州室戸崎、谷不惜響明星來影。遂乃朝市栄華念念厭之、巖薮煙霞日夕飢之、看輕肥流水則電幻之歎忽起、見支離懸鶉則因果之哀不休、触目勧我誰能係風。

この神秘体験は、「即身成仏」などと結びつけられて解釈されてきたが、空海の仏道入門の記述であることをふまえれば、菩薩戒受戒における観仏体験と結びつける方が適当ではないだろうか。例えば、慧沼『勧発菩提心集』に「大唐三蔵法師伝西域正法蔵受菩薩戒法」と題された一節があるが、そこには観仏体験の徴証として「涼風」「妙香」「異声」「光明」をあげる。

次当為說三品心受戒、於十方諸仏所、有三品相現。或涼風、或妙香、或異声、或光明等、種種相現。彼諸菩薩各各問仏「何因縁故有此相現」。彼仏各答云「於某方処索訶世界、在某処所、有某甲衆多菩薩、於某甲師所、説受菩薩戒。今証明所以有此三品相現」。彼彼菩薩咸生歓喜。各各皆言「於如是等極悪処所、如此具足雑染煩悩悪業有情、能発如是極勝之心、受菩薩戒、甚為希有。深生憐愍、於汝等所、起同梵行心。是故汝等宜応至心護持浄戒、不惜身命而勿毀犯」。(大正45・397上)

ここから類推すれば、空海の体験も観仏体験の一種と見なすこともできる。そして、先に見た比蘇寺の「放光樟像縁起」における光を放つ仏像もまた、観仏信仰を集める要素を持っていると言えないだろうか。自然智と安易に結びつけることは避けなければならないが、自然智から虚空蔵求聞持法への連想ゲームが働いた背景として観仏体験があったことを想像させる。時代は下がるが『今昔物語集』巻十一・道慈亘唐伝三論帰来神叡在朝試語第五にも、夢中の貴人が登場する。

自然智とは、記憶力増進でも単なる独学でもなく、観仏体験を伴う何らかの智の獲得(人間の師からの教育ではなく、仏菩薩による教育)を指しているのではないだろうか。そしてそれは、(空海の体験とも共通する)自己の仏性を自覚する菩薩戒とも関連してくるだろう*9し、後に吉野山へ集約される山岳信仰との接点も生まれてくる。比蘇寺は、修行者、参詣者が往来する古道(子嶋寺―壺阪寺―比蘇寺―金峰山ライン?)に接していることからも、空閑処というよりは観仏体験を求めるで賑わう霊地というイメージの方がしっくりくる。

*1:薗田香融「古代仏教における山林修行とその意義 ―特に自然智宗をめぐって―」(『平安仏教の研究 (1981年)』、『論集奈良仏教4 神々と奈良仏教 (論集奈良仏教)』)

*2:前谷彰・恵紹「『依憑天台集』における「生知」をめぐる問題」(『仏教学会報』第二一号、高野山大学仏教学研究室、2001年9月)

*3:末木文美士日本仏教思想史論考』、158頁。

*4:鈴木哲雄「『神会語録』引用経論を通して見た荷沢の思想」(『印度学仏教学研究』77、1990年12月)

*5:逵日出典『奈良朝山岳寺院の研究』、21頁。

*6:逵前掲書、22頁。

*7:逵前掲書、31頁。

*8:竹居明男「「吉野寺縁起」の史料性をめぐって ―欽明紀十四年五月戊辰朔条を中心に―」(横田健一編『日本書紀研究 第11冊』)

*9:拙稿(近刊)「五姓各別説と観音の夢 『日本霊異記』下巻第三十八縁の読解の試み」(『佛教史学研究』第50巻第2号)