hi-2008に向けて (2)

「hi-2008に向けて」の続き。

小形さん(id:ogwata)が「「束縛」という視点について (1)」の続きを書かれています:

小形さんの「束縛」観が徐々に明らかになってきました。私の考える「束縛」と少し感じは違いますが(もちろん、多分に重なってはいます)、シンポジウムに向けてはもちろんその方が好ましいわけです (^_^;; 「「束縛」は感染する」という視点は、コミュニティ(キャラ/キャラクター共同体と換言できるか?)について考える際の、ひとつの視点になるかもしれません。

前回のシンポジウムで発表してもらった野村英登氏(id:nomurahideto)も、参加に向けてコメントを発してくれています。

ケータイ小説って読んだことないので適当に答えますと (^_^;; プロットまではわかりませんが、形式(文体とか、○○譚みたいな説話の分類とか、メガネっ子とか)はキャラ的なものとして理解してもいいと思っています(プロットはキャラクターになるのかな?考え中)。もっと言えば、よりメタな形式である時間とか空間(に対する見方、心性)もキャラではないかと思っています。そして、キャラはキャラの束として記述される場合もある――例えばキャラについて「設定でしょ」「属性でしょ」と単純化してしまう言説がありますが、それは多くの場合、「キャラによるキャラの記述」(≒Chaonモデル)的なことを言っているように思います。以上はまあ、考え中のことなので(東浩紀氏のデータベースモデル*2に近くなっちゃってるし――近くなったらダメってわけじゃないんだけど)、シンポジウムまで考えが変わるかもしれません。

付け足し的に言っておくと、この議論はヘイドン・ホワイトのメタヒストリー*3をはじめとする歴史叙述(における形式)の問題(→今回の白須さんの発表)、そしてその前提となるフィクション論(→前回の河田さんの発表)と接続するように思います。

CHISEでは素性の束にコンテクストまで含まれるんでしたっけ。

むむ、いい質問です (^_^;; 広い意味での「コンテクスト」は含まれる(例えば、ある文字の素性として康熙字典に対する参照が入っているとか)でしょうが、「文脈」みたいなものについて含まれないと考える方が穏当かと思います。きちんと議論するためにはコンテクストについてもう少し厳密に考えなければいけないわけです。

*1:「不義理をしといて申し訳ない」とあるのは、野村氏が前回発表したにもかかわらず(しかも、発表者のなかで一番大胆な提言をしたにもかかわらず――と言うか、大胆過ぎたからこそ、かも (^_^;;)報告書に論文を載せなかったことを意味します。

*2:[asin:4061495755:detail]

*3:[asin:0801817617:detail]