「署名 出来事 コンテクスト」ほか

「hi-2008に向けて」のコメント欄で小形さんとディスカッションをしてきましたが、だんだんコメント欄に書くのが大変になってきたので (^_^;; 普通のエントリで。

署名に関するデリダの議論とは、『有限責任会社』*1所収の「署名 出来事 コンテクスト」です。東浩紀さんの『存在論的、郵便的*2での要約?を引用しておきます:

前期デリダはいくつかの論文で、「同じmême」と「同一的identique」という二つの形容詞を峻別し用いている。(…) 論文「署名 出来事 コンテクスト」でデリダは、「署名の同じもの性 [mêmeté] こそが、署名の同一性 [identité] と単独性とを変質させることで署名の封印を分割する」と記している。ここで「署名」という語は、記号一般がもつ性質を際立たせるために用いられたものだと考えてよい。記号は反復される。しかしそれは同一のものではない。それぞれの記号は、反復されるたびに異なったコンテクストに規定されるからだ。それはいわゆる「署名」が、反復されつつも、また書くたびに異なった筆跡で記されるのと類比的な現象である。(…)

「同一性」はコンテクストにより与えられる。それゆえ同じ記号でも、異なったコンテクスト内にあればそれらはもはや同一ではない。しかし「同じもの性」はそれとは異なる。デリダの用語法においてはそれは、記号の「反復可能な、繰り返し可能な、模倣可能なひとつの形態」を指示する。記号は記号である以上、つねにこの形態的な反復可能性に支えられている。そしてこれはエクリチュールの観念と等しい。なぜなら、エクリチュールが記号に与える引用可能性、つまり記号が本来のコンテクストから「断絶」する力は、異なった複数のコンテクストを貫いてひとつの記号が「同じ」であり続ける可能性により保障されるからだ。(…)

ここでひとつの隠喩を導入しよう。英語のwarやドイツ語のwarは、それぞれ意味=同一性に満たされている。対してエクリチュール「war」はそうではない。「war」は諸言語〔ラング〕のあいだを循環し、つねに「同じもの」であり続けながら異なった同一性を受け取る。七〇年代以降のデリダは、エクリチュールのこの「受容体」的特徴、「根底的な処女性」を名指すためしばしば「コーラ khôra」という隠喩を用いている。それはプラトンの対話篇『ティマイオス』で用いられたギリシア語であり、一般には場所、容器、苗床、国家などを意味する。この隠喩においては、ひとつのエクリチュールが複数のコンテクストに同時に属することは、ひとつの容器〔コーラ〕に対し複数のコンテクストが同時に意味を流し込むこととして捉えられる。英語とドイツ語は「war」というひとつの容器を分かちあう。(pp. 35-38)

これについては、以前CHISE Symposium 2003でとりあげたことがあります。デリダのこの論文はサールの言語行為論批判ですし、東さんの本は(批判はたくさんあるみたいですが)クリプキ/柄谷の固有名論についても議論しているので、一般キャラクター論の参考文献としてあげてもいいと思います。

「コーラ khôra」についてはデリダ『コーラ』*3も参照。

*1:

有限責任会社 (叢書・ウニベルシタス)

有限責任会社 (叢書・ウニベルシタス)

*2:

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

*3:

コーラ―プラトンの場 (ポイエーシス叢書)

コーラ―プラトンの場 (ポイエーシス叢書)