自然(じねん)と自然(しぜん)

情報歴史学研究室: カニ温泉ゼミ旅行に書いた通り、29〜30日は北陸方面へゼミ旅行に行っていた(今日はダメージが大きく、一日中寝ていた)。教員を含めた情報歴史学コースの関係者には麻雀のプレーヤーが多いことがわかるなど、有意義な旅であった。

それはともかく、那谷寺に参拝した際に、興味深い看板があった:

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ここに「自然智(じねんち)」という言葉が見え、それは自然(しぜん)や宇宙などと結びつけられている。ここで一応確認しておくと、伝統的な仏教用語としての「自然智」は、「何ものにもとらわれない本来自然の智慧」などと解説されることもあるが*1、私見では恐らく「独覚」などに近い用語ではないかと思われる。例えば、最澄は論敵・徳一の師資相承を問い質す中で「お前、もしかして自然智宗じゃねーの?」と聞いている。これは文脈からして「師匠がいないんじゃねーの?」ということである(最澄は北宗禅の影響が強いので、師資相承にも強いこだわりがある可能性がある)。要するに、師匠がいないのに勝手に(自然に)仏教的な智慧を得ることが自然智であり、したがって自然智の「自然」には今日的な自然(しぜん)環境の意味は恐らくない。

ただ、ここから「この看板、間違いwww」と言うのは簡単だが、それではつまらない。誤解だろうが何だろうが、「自然智」という用語には21世紀になっても通用するほどの強度があるということである。この立て札で興味深いのは「私たちの心の奥深くしまいこまれている自然智」という表現である。最近(でもないかな)、仏性をディープ・エコロジーと結びつける言説が見られるが(釋恆清『佛性思想』東大圖書公司、台湾、1997年など)、自然(しぜん)系仏教思想として見ることができるかもしれない。

*1:『岩波仏教辞典』の初版。第2版とかはどうなってるんだろう。