階級関係: カフカ「アメリカ」より(([asin:B0007KT1EY:detail]))

映画のこともカフカのことも素人なのでよくわからないが、楽しめたからよしとしよう。北野武とかツァイ・ミンリャンとかの撮り方と共通している部分が多かったと思うが、どうも私はそういうのが好きらしい。

もっとも楽しかったのはフレームの使い方である。普通の映画で、例えば二人の会話シーンを撮る時など、落語の上下みたいに二人を交互に撮ったり、両方を映したりする。でもこの映画ではそんなことはしない。会話シーンでもカメラは微動だにしない。会話の片方が映っていても、もう片方は声でしかその存在が示されず、しかも姿を見せないまま、カメラのフレームの外で立ち去ってしまう(のが足音でわかる)。

こういうシーンを繰り返し見ているうちに、自分が、会話にあわせた“自然な”カメラの動きを期待しているのがよくわかる。そしてそれを裏切るように、この映画のカメラは振る舞うのだ。DVDのブックレットで三原弟平氏が(資料的価値が疑われているのを知りつつあえて)引用している『カフカとの対話』*1の一節を読んだ時は、我が意を得たり、という感じであった:

私は眼の人間なのです。しかし、映画(キーノ)は見ること (Schauen) を妨げる。動きの速さや形象のすばやい転換は、人間に絶え間なく見過ごすこと (Üerschauen) を強制します。視線が形象をとらえるのではなく形象が視線をとらえる。そしてそうした形象が、意識に氾濫 (überschwemmen) をおこすのです。映画(フィルム)とは、これまでは裸のままだった眼に、制服を着せることです。

この映画は、映画の「制服」に慣れ親しんだ我々の眼や耳を「裸」にしようとしている…まるで上のカフカの言葉(かもしれないが違うかもしれない言葉)を、他ならぬ映画で言い直そうとしているかのように…カメラワークだけでなく、素人と役者とを混ぜた配役等々、端々でそんな実践がなされている気がする。こういう逆説的な?映画体験は、実に楽しいのであった。

*1:[asin:4480081410:detail]