武士道考―喧嘩・敵討・無礼討ち―(([asin:4047021350:detail]))

実証主義って、いいもんですねぇ。すごく勉強になります。って言うか、単に史料に書かれた「ナマ」の暴力に萌えているだけなのかも (^_^;;

そもそも、「武士はかくあるべき」と主張された武士道論は、理想的武士の姿を描いたものである。民主主義の思想が唱えられたからといって、それが実現されているわけではないのと同じく、江戸時代の武士によって現実化された武士道は、必ずしも思想として書かれた武士道論と一致するわけではない。実践された武士の生、武士のあり方とは具体的にどのようなものだったのか。近世の武士は、どのような行動が武士にふさわしいとして賞賛され、あるいは武士に似つかわしくないとして処罰されたのか。これは「思想」としての武士道論ではなく、武士が「実践」した実力行使を研究することで、明らかになる。 (pp. 11-12)

ああー、なぜだろう、思想と社会とを安易に繋げてしまう宗教史や思想史の研究者が叱られている気がするー(汗)。

それはともかく、近代以降の(特にチャンバラ時代劇で再生産されている)武士道観と、近世当時の武士道論、文芸作品などにおける社会的心性の表象、そして法思想とが、なんとなくうまく区別、整理されていない気がする。「思想」と「実践」を安易に結びつけるのは確かによろしくないが、かと言って簡単に切り離すこともできないはず(実際、著者の谷口氏も、荻生徂徠をはじめとする論者の赤穂浪士をめぐる議論を比較検討したり、『葉隠』を論拠にしたり〔pp. 165-166〕している)。例えば、様々な事例を比較することによって、最小公倍数的な当時の“原則”を導き出すのも重要であろうが、その“原則”は果たして誰の“原則”なのか、という問いを立てることはできるだろうと思う。