表象としてのコンピュータ (2)

id:moroshigeki:20071030:1193751261の続き。

(1)の最後で「私たちは「非人間」的な知性をあまりに激しく欲望しているからこそ、その欲望を強化するべく、コンピュータを倒す物語を作り続けるのだ」という仮説を述べたが、人類の歴史の中で「「非人間」的な知性」について飽くなき探求を行なってきた人々がいる。それは宗教家である。もっと厳密に、宗教思想家と言うべきかもしれない。仏教における「法身仏」のように、宗派を問わず、多くの宗教において、思索が進むに連れて非人格的な世界の理法に等しい「神」のようなものが説かれるようになる。

時々、次のキラーアプリは宗教か?--盛り上がりを見せる「教会関連技術」市場などといったニュースを目にする。このようなニュースは、コンピュータと宗教との間にギャップがあるからこそニュースになるのであろうが、仏典のデジタル化の現状で指摘したこともあるように、長い年月をかけて「「非人間」的な知性」に慣れ親しんできた宗教家はコンピュータに代表されるハイテクに対して、恐らく一般世間より過敏に反応してきた。

例えばそれは、人文科学におけるコンピュータ利用の歴史を見てもわかる(ここでようやく「人文学とコンピュータ」という授業に接近するのであるが (^_^;;)。人文学とコンピュータも、宗教と同様、ギャップがあると思われがちだが、Michael Fraser氏のA Hypertextual History of Humanities Computingを見ればわかるように、ごく一部の研究者ではあるが、コンピュータの草創期から人文学においてコンピュータの利用は始まっている。

  • 1946年 最初の実用化されたコンピュータENIAC誕生。
  • 1949年 Roberto Busa、コンピュータを使ったトマス=アクィナスの著作の索引を作成を開始(1974年完成)。
  • 1959年 John William Ellison、コンピュータで作成したギリシア語訳新約聖書のコンコーダンスを出版。
  • 1960年 Ellison & Morton、ギリシア語訳新約聖書をテレタイプと紙テープによる機械可読な形で公開。

人文学におけるコンピュータ利用の歴史は、草創期にだけ目を向ければ「キリスト教学者によるコンピュータ利用の歴史」とほぼ同意である。

(続く)