表象としてのコンピュータ (1)

大谷大学の非常勤で「人文学とコンピュータ」という授業を担当している。この授業では毎年(と言っても、今年で2年目なのだが)、映画『マトリックス』*1を観て、そこに出てくるコンピュータについてどう思うか、リアルって何だ、みたいな質問に答える小レポートを出させている。『マトリックス』自体は、別にたいした回答を示しているわけではない。むしろここで考えたいのは、コンピュータや「リアル」がこの大ヒット映画の中でどのように描かれているか、どう語られているのか、という点、言い換えれば人々がこれらのことに対してどのようなイメージを持っているか、という点である。「人文学とコンピュータ」という授業の中でそういう課題を与えるということは、『マトリックス』は人文学者がコンピュータをどのように捉えているか、ということを考えさせるための、言わば前座なのである。

さて、『マトリックス』のコンピュータは、

  • 極めて合理的で非人間的な知性を持ち、
  • 人間を支配する存在

として描かれているが、前者に関して言えば、例えば世の中で人口に膾炙されている「デジタル人間」「アナログ人間」という分類法が想起される(google:デジタル人間)。デジタル人間は、論理的な思考が得意だが人間味に欠ける。アナログ人間は、情緒的な思考になりがちで、人間味にあふれる云々。同じように「デジタルよりアナログの方があったかい」とか「インターネットでは人間的なつきあいができない」みたいな言説は世の中に溢れている。このような分類がいかに根拠がないかについては枚挙に暇がないが、問題なのは、なぜ「デジタル」がこうまで目の敵にされるのか、ということである。逆に言うと、大した根拠もないのにこれだけ憎まれるからこそ、あのような『マトリックス』でのコンピュータの描写がある種のリアリティを持って受け入れられるのであろう。

また、後者の「人間を支配する」については、現代ではエシュロンの存在が思い浮かぶ。エシュロンについては以前、こんなことを書いたことがある。

一方、「検索型権力」*2を懸念する声もある。パノプティコンや〈偉大な兄弟〉の監視がリアルタイムであるのに対して、歴史/世界のデータベースに対して強力な情報処理能力を駆使し、ある個人や共同体の全体の性格を決定するような物語を見出そうとする権力のことだ。その筆頭に上げられる「エシュロン」は、米国国家安全保障局(NSA)が中心となってアメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドなどの英語圏諸国が世界規模で行っているとされる情報監視・盗聴ネットワークで、テロリストの疑いのある者やビジネス上有利な情報を探り出すために世界中のあらゆる電子メール、電子商取引、電話での会話などを記録し、特定のキーワードがないかチェックしていると言われている。このエシュロン、規模はともかくキーワード検索という技法は情報技術的にレベルが高いものとは言えないし、また一昔前に流行したユダヤ財閥や宇宙人による陰謀史観の直系という印象もあるが、欧州議会特別委員会はその存在を公式に認定しており、2001年9月にアメリカを襲った同時多発テロとその報復戦争においても、エシュロンによって収集されたデータが活用され、「自由主義」対「イスラーム」、「正義」対「悪の枢軸」などといった対立概念の捏造に大きな役割を果たしたと言う。(『日本史の脱領域』*3、p. 112。太字は引用者)

ゴルゴ13』には「神の耳・エシュロン」というサブタイトルを持つ巻(144巻*4)があるが、ここに描かれているエシュロンは「言語を操る全人類の会話と、人物のデータを蓄積している」「神の辞書」であり、これによってアングロサクソンによる「支配」が貫徹される。これに限らず『ゴルゴ13』シリーズに登場するコンピュータは、究極の「アナログ」であるデューク東郷と対立する「デジタル」として描かれることが少なくない。

上の引用で太字にした部分に「ユダヤ」とあるのは偶然ではない。コンピュータ(およびインターネットなどの技術やそれに関わるホリエモンみたいな人々)は、ほとんどユダヤ人と同様の位置付けを与えられている。内田樹氏の『私家版・ユダヤ文化論』*5は、なぜユダヤ人に「特別な憎しみ」が向けられるのかについて分析しているが、この分析はコンピュータに対する「特別な憎しみ」にも適用できるように思われる。

内田氏はフロイトを援用しつつ、次のような心理的なメカニズムがあると指摘する。

私たちは愛する人間に対してさらに強い愛を感じたいと望むときに無意識の殺意との葛藤を要請する。(中略)「愛する人の死を願う」ことで自分の中の愛情を暴走的に亢進させることができるという「殺意ドーピング」の虜囚になる。(『私家版・ユダヤ文化論』p. 211-212)

そして「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していたから」こそ、その「欲望」を「暴走的に亢進させる」べく「愛する人の死」=大量虐殺などに手を染めるようになったのだ、と結論する。

これをコンピュータに置き換えると、「私たちは「非人間」的な知性をあまりに激しく欲望しているからこそ、その欲望を強化するべく、コンピュータを倒す物語を作り続けるのだ」となる。

(続く)

*1:[asin:B000GDIB3Y:detail]

*2:[http://www.hirokiazuma.com/texts/computer.html:title=東浩紀・山根信二対談「コンピュータ文化なき日本」]

*3:[asin:491608733X:detail]

*4:[asin:4845830051:detail]

*5:[asin:4166605194:detail]