学会初日

学会初日は午前中に発表があるので早く行く。発表タイトルは「新羅における玄奘の唯識比量の解釈 ―憬興・太賢・道証を中心に―」(当日配布したレジュメ〔PDF〕)。

唯識比量とは、玄奘がインド留学中、外道(仏教以外の宗教・思想)や小乗の人たち相手に、自分が勉強してきた唯識思想の正当性?を証明するために立てた推論式(比量)である。

  • 眞故極成色不離於眼識(真なるが故に極成の色は眼識を離れず)
  • 自許初三攝眼所不攝故(自らが許す初めの三に摂せられ、眼に摂せざる所なるが故に)
  • 猶如眼識(眼識の如し)

仏教論理学(因明)では、上のような宗(証明されるべき命題)、因(証明のための理由)、喩(命題と同じ例)の3つからなる。冒頭の「真なるが故に」というのはわかりにくいが(っていうか、因明は仏教の中でも用語が変で、全体的にわかりにくい)、清弁(Bhāvaviveka、c. 490-570)という人の論理学の方法を採用していると思われるもので、論理式を「勝義においては(≒世俗の常識的な論理ではなく真理の世界の論理を使えば)」という風に限定してしまうものである。清弁は法相宗的には批判対象(実際には仮想敵かな)なので、法相宗の鼻祖である玄奘が清弁的な論理学の方法で唯識の証明をしてしまっているのは大問題だったりしたのだが、詳しくは拙稿「清辨の比量をめぐる諸師の解釈 『唯識分量決』を中心に」あたりを読んでくだされば幸いです。

今回の発表は、上にあげたような様々な問題の一つで、唯識比量自体に過失があるんじゃね?という議論である。一番わかりやすいところでは「自らが許す」の部分で、これがある場合には自比量、すなわち自分の学派が承認する概念だけで推論、証明をしますということなのだが、上に「外道や小乗の人たち相手に」と書いた通り、シチュエーションとしては自比量ではダメな場面である。これを巡ってまた喧々諤々の議論が行なわれたのである。これについてはかなり早くから疑義が出されていたようで、その急先鋒として有名なのが新羅の元暁・順憬らである。中村元氏は、唯識比量に対する新羅僧の解釈が、韓国人の思惟方法の特徴の一端、すなわちハングルの発明にも通底する韓国人の合理主義が見いだせるというのであるが*1、これは言い過ぎだろう (^_^;;

それはともかく憬興・太賢・道証であるが、この人たちも新羅人なのだが、元暁たちのように批判するのではなく、玄奘は正しかったと擁護する論陣を張る。しかしながら、同じく擁護的な議論をした慈恩大師基らについては強く批判し、独自の論拠で擁護するのである。彼らは、「自らが許す」と入っている以上、唯識比量は自比量と見なすほかないし、それで何の問題もない、と述べるのである。

発表後、姫路獨協大の金天鶴さんと龍谷大学の桂紹隆先生からご質問を頂いた。特に桂先生からは、因明の大成者の一人で、東アジアの学僧が依拠している陳那(Dignāga)の説く因の三相とか遍充関係についての議論があるか、という質問をしていただいた(遍充関係とかについては、その手の本*2を読んで下さい)。その場では答えられなかったが、遍充関係の前提となる「話の世界 universe of discourse」の性質についての議論なのかもなぁ、などと現在では思っている。このあたりについては後日を期したい。

発表が終わった後は、他の人の発表を聞いたり、理事会に出たり、総会に出たり。懇親会はパスして帰ろうとしたら、大学院時代の先輩である橘川智昭さんが「吉野川を歩いて渡りたい」と言うので、それはいい考えだとご一緒する。なかなか爽快な経験であった。

*1:[asin:439331204X:detail]

*2:[asin:4393101499:detail]