江原啓之への質問状 スピリチュアルな法則で人は救われるのか

しつこく輪廻シリーズ*1である。このあいだ提出した原稿には、こんなことを書いた。

火の鳥』の世界観においては、極大の宇宙から極小の素粒子まで、すべての存在は「宇宙生命(コスモゾーン)」という「生きもの」である(『未来編』)。「宇宙生命(コスモゾーン)」であるという絶対的な根拠を共有するという点においてすべての存在は平等であり、我王の言う通り「生きとし生けるものはみんな仏だ!」ということになる。その一方で「宇宙生命(コスモゾーン)」は、現実世界の差異、差別の根拠ともなる。『未来編』において火の鳥は言う。「宇宙生命(コスモゾーン)/たちは物質に/とびこみます/すると/その物質は/はじめて/いきてくるん/です」と。すなわち、「宇宙生命(コスモゾーン)」は現実の多様な存在のあり方を、そうあらしめている根本なのである。
(中略)
そして『火の鳥』のこのような世界観は、現在の前世ブーム、スピリチュアル・ブームを牽引する人々に共有されている考え方でもある。リフレミングセラピストという肩書きで若い女性に人気がある佳川奈未氏は「宇宙生命」というまったく同じ言葉を(細かい違いはあろうが)使っているし、テレビなどで人気がある江原啓之氏が言う「霊界」も、すべての「たましい」がまじりあう「宇宙生命(コスモゾーン)」に似たものとして説明されている(『江原啓之への質問状』)。極論すれば、本覚思想も五姓各別説も「宇宙生命(コスモゾーン)」もスピリチュアルも、皆同じ思想構造を共有しているのだ。

上の理路は、仏教学な人であればすぐにわかると思うが、松本史朗氏のdhātu-vāda仮説を下敷きにしている。この仮説というかモデルは、けっこう強力な記述/分析モデルだと思うのだが、「dhātu-vādaは差別を肯定する。したがってdhātu-vādaな教義は仏教ではない」というアピールの仕方が反発を食らって、あまり活用されていないのが残念である。

それはともかく江原氏の輪廻観である。江原氏的輪廻観において注目されるのは、人の現在の境遇は生まれる前の「たましい」時代の自己決定によるものである、という主張である。「たましい」にとって現世は修行の場であるから、厳しい修行を行いたいと思った「たましい」は、苦労をしそうな母親を自ら選び、現世に生まれるという。たとえ生まれ出た瞬間に便器に落ちたとしても、「赤ちゃんがその母親のお腹に宿ると決めた時から、たとえ短い時間であっても、そのたましいとしての学びはちゃんとある」(p. 210)という。死後、たましいは霊界へ戻って類魂(グループ・ソウル)と交じり合い、現世での経験は類魂(グループ・ソウル)で共有され、霊界全体の英知となるという。そして再び生まれるときは、類魂(グループ・ソウル)から離れ、自己決定で親を選ぶのである。

これだけでなく、江原氏の発言には自己責任論的な論調がよく見られる。例えば、昨今のニートなどの問題についても、以下のように述べている。

江原 僕は、「仕事が見つからない」というのは、努力をしていないことを棚に上げているだけだと思いますよ。確かに就職難と言われて久しいけれど、選ばなければ仕事はあるでしょ。(p. 129)

たましいの段階で選択した人生は、類魂(グループ・ソウル)の英知によって裏付けられており、肯定せざるを得ない。その中で幸福を勝ち取れないのは、たましいの段階の意図を把握せず「努力をしていない」からなのである。まさしく、超越的な基体が現実の差別の根拠となるdhātu-vāda的な構造が見出されるのである。

昨今の「スピリチャル」(なぜ形容詞)ブームにおける個人主義的傾向については香山リカ*2が指摘しており、その個人主義的傾向が現在の格差社会における「下流」の特徴であることは内田樹*3が指摘するところである。めちゃモテ日本 (内田樹の研究室)によればこの傾向は変わりつつある(そりゃそうだよな)ようだが、そのときにもこのような江原流輪廻観は変化しないでいるのだろうか、見守って行きたいと思う。