Чинобошкаさんのid:chinobox:20070620を読んで、「テツガク」とカタカナで書く人(たち)を思い出す*1。そのことのパフォーマティヴな効用は如何。
(1) 哲学コンプレックス
Чинобошкаさん曰く:
(1) 文学なんてそんな偉いもんじゃないよ、というニュアンスを出す。
「文学なんてそんな偉いもんじゃない」のはそのとおりです。だけど、
「他の娯楽コンテンツより文学のほうが上等だと思われている」
「他の娯楽コンテンツより文学のほうが上等だと思う人がいる」
とか思うかいまどき? こういう〈ブンガク〉の使いかたって、第22回SF大賞選考委員のひとりのような純文学コンプレックスを抱えてないとできません。
そのまんま。コンプレックス丸出しの『国民の芸術』を思い出すなぁ。
(2) 営業スマイル
大学改革とか実学重視とかで苦しい立場に立たされている哲学の先生が見せる大衆迎合的?な態度。これも発言する立場が違うだけで、裏には「濃度100%の哲学なんて、お前等にはわからんだろ、薄味飲んどけ」みたいな優越感があるのかもしれない。大学の授業における「入門」とか「概論」とかもそうかも。仏教の「方便」も、ある意味同じ。
以下脱線。(以下のラノベと純文学?の割り当ては私の勝手な妄想です)自分の方が偉いと思っているやつら(純文学)が、実は、見下しているやつら(ラノベ)に経済的に支えてもらっている、みたいな関係があるとすれば、哲学にとってのラノベに当たるものって何だろう。
仏教学って、梅原猛とかひろさちやとかの読者、そして昔のNiftyのFBUDや今のmixiの仏教コミュとかで「相対性理論は仏教の真理と同じだ!」とか主張しながら、自分以外を折伏しまくっている人々に支えられているような気がする。サイエンス本は、実はオカルトな人がたくさん買ってるとか、ありそうだな(これも妄想)。
(3) “オレ流”的「哲学」を区別するため
「経営哲学」みたいな感じで、人生観とか信念とかポリシーとかを「哲学」と言う場合があるので、それを存在論とか認識論とかの伝統的な哲学と区別するためにカタカナで呼ぶ場合。