リアリズム・超越主義・相対主義

id:moroshigeki:20070517:1179329544によせられたコメント(特にid:chinoboxさんのコメント)に対するお返事。コメントありがとうございます。ここんとこ、ちょっと体調悪くて(下痢してました)遅くなってしまいました、すいません。あのコメント欄に続けて書こうと思いましたが、右の図を載せたかったので別エントリにします。

chinoboxさんが我孫子武丸氏の「少女たちの戦争」や三浦俊彦虚構世界の存在論』を引きつつ、

これは安直な価値相対論ではない。メイクビリーヴの同心円の外に立って、絶対的真偽の判定を下したり、逆に超越的に価値の多様性を唱えたりすること、それ自体を不可能なことといったん認めてしまう立場です。萩原の論理は、ミラーサイドの物語を虚偽と見なしてそれを「真実の物語」で置き換えるのではなく、ミラーサイドも友情も恋愛も、すべての物語が物語ということでは等価であり、ただどの物語を取るのかという取捨選択だけが問われています。想像力の腐敗に攻するには、前世否定ではなくこういう方法のほうがいいのかしら。

と仰ってますが、これを聞いて思い出すのが入不二基義氏の相対主義をめぐる議論です。本当ならば『相対主義の極北』*1あたりを参照すべきだろうと思いますが、手許に適当な資料がなかったので、便宜的に「「ほんとうの本物」の問題としてのプロレス」(『現代思想臨時増刊号』第30巻第3号、2002年2月)、p. 91の図を載せます(右図)。

この図で言う「リアリズム」とは、「現実世界」を素朴に絶対視する立場です。「ミラーサイドの物語を虚偽と見なしてそれを「真実の物語」で置き換える」に相当するかと思います。それに対して超越主義あるいは観念主義というのは「超越的に価値の多様性を唱えたりすること」に相当するでしょう。荻原の「ミラーサイドも友情も恋愛も、すべての物語が物語ということでは等価であり、ただどの物語を取るのかという取捨選択だけが問われ」るという態度は、相対主義にあたるのではないかと思います。

ここで注意しなければならないのは、相対主義的な理解、すなわち「すべての物語が等価である」という判断に至るに際して、一度は超越的な視点が導入されなければならないということです。入不二氏の図における超越主義、観念主義、相対主義が、基本的に同じ形であることは偶然ではありません。相対主義はいったん超越的な視点によって「すべての物語が等価である」という判断をした後、超越的な視点をなかったことにすることによって成立します。入不二氏の相対主義の図で、円錐の上の部分が消されているのではなく、点線とバッテンで表現されているのは、それを表しているのでしょう。

メイクビリーヴ(ごっこ遊び)についてマリー=ロール・ライアン氏は「ごっこ遊びでも虚構でも、ゲームに踏み込むとは、それがゲームという地位を持つことを明示する言語記号を消去することである」(『可能世界・人工知能・物語理論 (叢書 記号学的実践)』, p. 51)と言っていますが、これも相対主義における超越的視点の消去と重なるかもしれません。

さて、相対主義と超越主義、観念主義との大きな違いは、相対主義における超越的視点の消去は、相対化されるメンバー自身(図で言えば円錐の底面にある丸)によってなされるということです。

  • こっちの世界の人にとって、
    • こっちの世界の人にとってのこっちの世界は重要である
    • あっちの世界の人にとってのあっちの世界は重要であると思われる

両文の最初における「こっちの世界の人にとって、」が超越的な視点です。しかしこの超越的な視点自体が相対化の対象となるメンバーのひとつなので、超越的な視点は無限後退してしまいます。

  • こっちの世界の人にとって、
    • こっちの世界の人にとって、
      • こっちの世界の人にとってのこっちの世界は重要である
      • あっちの世界の人にとってのあっちの世界は重要であると思われる
    • あっちの世界の人にとって、
      • こっちの世界の人にとってのこっちの世界は重要であると思われる
      • あっちの世界の人にとってのあっちの世界は重要であると思われる

入不二氏は、このような無限後退にストップをかけるものとして、ルイス・キャロル「亀がアキレスに言ったこと」(『不思議の国の論理学 (ちくま学芸文庫)』所収)を引きつつ、「世俗」の力を紹介します。

 なぜ、亀とアキレスの二者だけでストーリーを構成せずに、わざわざ最後のところで「語り手」を登場させたのだろうか。しかも、その「語り手」が、二人のもとを立ち去る理由が、「銀行」での差し迫った用事であるというのは、どういうことだろうか。(中略)
 「銀行」とは、亀とアキレスのような「浮き世離れした」「永遠の」議論状態とは対極にある「世俗」「決算を迫られる場」である。そこでは、計算も生もあわただしくかつ滞りなく進行し、パラドクスの解決など必要もないくらいに、パラドクス以前である。しかし、それはただ単に「以前」なのではない。「語り手」が〈途中で〉訪れる銀行は、パラドクス発生に先立つ場であると同時に、亀とアキレスの対話の〈間〉に挿入される「語り」の休止状態としてのみ現れる「以前」なのである。(中略)
 そしてもちろん、「語り手」が再び戻ったとき、亀とアキレスの議論は相変わらず続いていた。(中略)
 「(アキレスの)ノートはほぼ埋め尽くされているようだった」とあるが、ノートが埋め尽くされたならば、どうなるだろうか。推論過程の無限後退には、もちろん原理的には終わりがない。しかし、ノートの空白がなくなればアキレスは書き続けられなくなり、事実の問題として無限後退はストップする。それは、「ノート」というマテリアルな次元が、原理的な思惟の宇宙の外部から、不意に訪れる瞬間である。(『相対主義の極北』, pp. 107-109)

ここで言う「世俗」という「場」は、先に述べた相対主義を成立させるために消去される超越的な視点と重なります。相対主義においてはそのような視点、場は消去されますが、キャロルは逆に「語り手」や「銀行」という形で顕在化させることで、このような問題において見えにくくなっているものを指摘しているのだと思われます。

大学院生・荻原に「──こっちの世界では、必要とされてないとでも言うのか」と言われて、id:nomurahidetoさんの言う「南米にドラッグとUFOを求めて何度も行ってる人」みたいな態度ではなく、「みんな虚をつかれたように顔色が変わった。」のはなぜでしょうか。

(書きかけ)

*1:

相対主義の極北

相対主義の極北