かかれる悦び

4月36日に突入。原稿が進まない。あーでも今日中にはむりやり書き上げねば。

…などと思いつつ、いろいろ雑用があったため円町へ。ついでに散髪もする。

昔から散髪されるのが好きである。バリカンよりハサミでちょきちょきされるのが好きである。洗髪も、洗髪後のマッサージも好きである。神経が集中している職人の指で、頭皮をなぞるように触れられるのがとても気持ちがよい。

今日、ふと気づいたのだが、散髪とは「書く」という行為によく似ている。日本語の「書く」は「掻く」に通じる。英語のwriteも「尖ったもので刻みつける」みたいなのが元々の意味である。しかもその掻いたり刻んだりする行為は、かく側からの一方的な行為ではない。かく側は、かかれる側からの絶え間ないフィードバックによって変化し続ける。石川九楊氏はそれを「筆蝕」と呼んで、書=「かく」ことの本質であるとしたが*1、蓋し慧眼である(この人はすぐに本質主義的になるので好きではないが)。ハサミで髪の毛を切ったり、指の腹で頭皮をマッサージするのも、まさに「かく」行為ではないか。

で、散髪されるというのは、「かかれる側」になることである。紙などに字を書く場合、紙の気持ちなどわからない。でも、散髪屋*2に行けば、自分の方がかかれる側となる。かかれるとはこういうことか、と妙な感心をしたりする(ただし、フィードバックの多くは無意識的なものだと思うので、感心はしてもそれだけでは何も知ったことにはならない)。もちろん、散髪以外にも媒体になる場合はあると思うが(例えば、背中を掻いてもらったり、マッサージをしてもらったり、入れ墨を入れてもらったりする場合など)、こんなに日常的に、しばしば愉悦を伴いながら「かかれる」という経験をしていたとは、今さらながら自分の管見を呪ったのであった。

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*2:「床屋」という言葉は関東の言い方で、関西では「散髪屋」と言う、と聞いたことがある。真偽不明。どなたかご教示されたい。