「モデル」とか「方法」とかについて教える

授業が始まって1〜2週、オリエンテーションも終わり、実質的に最初の講義がスタートした。ひさしぶりにガーガーしゃべるので喉が痛い。しゃべる時に踏ん張ってるらしく、足も疲れる。

だいたいの授業で最初に話すのが「モデル」の話、あるいは「方法」と「対象」とを区別しようみたいな話である。いきなり抽象的な話になるので、学生も面食らうし、私も必死になってしゃべるが空回り感が強い。でも、大切だと思うので、最初にしゃべる。

どんな研究領域でもそうだが、ある作業(古文書の読み方、フィールドワーク、データベースの構築などなど)をおぼえて、そこそこできるようになると、作業自体が楽しくなってしまい、作業=研究あるいは作業=自分みたいな状態になってしまう。作業=自分というのはわかりづらいが、単独者である「自分」が自分の意志で今の作業を完全に制御しているような感覚である。作業と自分との間に何重もの層があり、そこに様々なものが潜在していたり、自分や対象を含めた各層に様々な影響が侵入していることに気づかないかぎり、単なる作業者に終わってしまう。単なる作業者というのは、既知の仕事については対応できるし、優れた結果を残すこともあるが、未知の存在に対しては対処することができない。大学という場は、当たり前だが未知の問題に対して開かれている。そして所謂「一般社会」は、これも当たり前だが、未知だらけである。既知の問題を学ぶことはもちろん大切なことだが、未知に対応できる能力を身につけさせることが、極端なことを言えば大学教育の(ほぼ唯一の)使命だと私は考えている。

そういう能力を身につけるための第一歩が、いろいろな学問には「方法」があり、「方法」自体が研究対象にもなるということ、対象を把握したり記述するためには「モデル」というものが必要で、「モデル」が変わると世界自体が変化するのだということを、しっかり教えることではないかと思うのである。

昔は、伝統的なカリキュラムを時間をかけてこなすことで、こんなことは自然と身に付くのだと思っていた。実際、私自身は、大学教育の中でそのような授業をうけた記憶がない。いや、一般教養の心理学の授業が、心理学研究史になっていて、方法についてかなりつっこんだ講義をしていたような気がする(非常に神経質な先生だったが (^_^;;)。大学時代に受けた授業の大半は記憶から抹消されてしまったが、あの心理学の授業はかなり詳細に憶えている。しかし、大部分は独学である。

最近、それではいけないと思うようになってきた。かなり意識して、明確に「方法」の存在を訴えないと、やばいんじゃないかという気がしている。

(書きかけ)