隠れキリシタンを思う今日この頃

諸星大二郎原作の映画『奇談』*1を今更観ながら、そういえば自分も小学生ぐらいの頃(心霊写真全盛時代 (^_^;;)、山奥に隠れキリシタンの墓を探しにいったりしたなぁと思い出す。私の育った猪苗代町隠れキリシタンがいたそうで、オカルト好きな連中と、地元の大きな神社から道とも言えないような山道を下っていくと、木製の墓というか記念碑みたいなものが2本ぐらい立っていた。私はその頃、英語塾でもあった教会に通って礼拝などに参加し、割と真剣に洗礼を受けることなども考えて勉強したりしていたので、そのお墓みたいなものの前で、恐らくはその場にはまったくふさわしくない讃美歌を知ってる限り唱える役であった。

そういえば先月の春休み中、ほんの数日だけ帰省した際に寄ったおそば屋さんの側に祠があった(写真)。扉が開いていたので何気に覗いてみたら、マリア観音が祀ってあった。近くの電信柱には「子安観音」と書かれていた。内装がきれいになっていたところを見ると、何らかの形でまだ信仰が続いているようである。

静岡でキリシタンがらみの講演*2をする準備もあって、キリシタン関係の本をぱらぱらと読んでいる。中でも小岸昭『隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン*3は、「隠れの思想」みたいなものに注目して(ユダヤ性みたいなものを指摘されることもあるデリダ先生なんかをからませながら)論じようとしており、おもしろい。「隠れ」を単なる屈服と捉えるのではなく、「隠れ」の主体性、あるいは「隠れ」によってのみドライブされる宗教性みたいなものとでも言おうか。もっとも、理論的に深めようというより、事例をどんどん並べていく、みたいな感じなので、理論好きとしては不満なところもあるが。

『奇談』の舞台である東北の寒村と自分の実家を重ね合わせつつ(ぜんぜん似てないけど)、この映画の観客の視点を「ハナレ」の人々の側に置いたらどんな映画になっていただろうか、などと答えの出ないようなことを考える今日この頃。

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*2:id:moroshigeki:20070324:1174526915

*3:[asin:4409520385:detail]