古代仏教をよみなおす(([asin:4642079610:detail]))

発酵させるつもりが腐臭を発しつつある五姓各別説と観音の夢を知らぬふりして論文化すべく、世間体を気にして少しでも体裁を整えなきゃと思って読みはじめる。古代仏教史の現状が非常によくまとまっており、お買い得感高し。

ただ、いくつか気になった点もある。吉田氏は「民衆」という言葉を何気なく、恐らくは自明のものとして用いられているが、果たしてそれが何を指しているのかよくわからない。私はこれまで、学会発表などで「民衆仏教」というような言葉を聞くたびに、「その“民衆”ってどーゆー人たちのことですか?」というような質問をしては、「何言ってんだ、この人は。民衆は民衆だろ」みたいな反応をされて、会場で浮いてしまうという経験を何度もしている。だいたい「民衆」という言葉が指すのは、

  • お金がない(一見、お金がなさそうな)人たち
  • 行政に関与していない人たち
  • 正統だけど小難しい教理を知らない人たち

みたいな人たちなようだが、文脈によって融通無碍だし、これらの性質があることから「女性と仏教」的言説とか鎌倉新仏教(or 聖徳太子 or 行基 or so)マンセー的言説とも親和性が生じる(鎌倉新仏教マンセーはもうパワーがないし、聖徳太子も怪しくなってきたので、別のよりどころを探しているようにも見える)。仮定された有機交流電燈 古代仏教史研究の現状で、吉田氏が「民間の仏教」を実体化し、『霊異記』に「すぐに古代の実態をみようとする」のはどーよ?と指摘しているのも頷ける話だ。『霊異記』に出てくる人は法会ができるぐらいお金持ちだし、仏教のことをよく知っている識字層、知識人?も多い。何より『霊異記』自体が法相教学を背景に編纂されていることは多分間違いない(これは私の論文のテーマ)ので、その意味では『日本書紀』同様のイデオロギー性の強い説話集(あるいは歴史書)ではないかとも言える。作業仮説や分析概念、説明概念として「民衆」という用語が出てくるのは全く問題ないし、研究史的意義があったことも知っているが、仮説は更新されるからこそ意味があるんじゃないだろうか。

あともうひとつ不満なのは、朝鮮半島の影響について、ほとんど取り上げられていないこと。少なくとも思想史的には所謂“新羅仏教”の影響は決定的で、それ抜きには全く立ち行かないというのが現状だと思うのだが、古代史とか国文学の論文ではまだあまり新羅などの名前は見ない。細かいことを言うと、上の「民衆」同様、「朝鮮半島」とか「新羅仏教」とかいうのも作業仮説的に設定されたものであって、実際にそれらがどの程度自律的であったのかはわからない*1。しかしそれを言うなら、本書で繰り返されている「中国仏教」というのも同じくらい謎な存在であって、それがかなり支配的な感じで取り上げられているのは違和感がある。

そんなこんなの不満はあれど、全体としては最初に言った通り、是非読まれるべき本だと思う。私がこの本に不満を持てるのは、周りに優秀な古代研究者がいて、いろいろ耳学問できているからで、そーゆー方々がいなかったらバイブルのごとく評価していた可能性が高い (^_^;;

*1:韓国の研究者は「中国仏教」から独立した「韓国仏教」を主張するけど、古代の「日本仏教」も含めてこの辺は研究者の都合で言い分けられているに過ぎないように思う。最近「東アジア仏教」という枠組みを模索する動きもあるし、私もそれ系の学会で発表したこともあるけど(id:moroshigeki:20061202:1164199396)、現状では漢文テキストだけを使う〔≒サンスクリットとかチベットは使わない〕ために「東アジア」と言っているに過ぎず、「方法としての東アジア仏教」というようなところまで考えている人はごくわずかなような気もする(ちなみに私はそんなことは考えていない)。確かに、従来の仏教学のオリジナル偏重主義に対するアンチテーゼとしては一定の効果があるのかもしれないが、立ち位置を理論武装しない限りは「サンスクリットの勉強に挫折した人たちの仏教研究」みたいなレッテルを貼られちゃうんじゃないだろうか。