近江国分寺の所在をめぐる二、三の考察

id:moroshigeki:20070127:1169963772で発表を聞かせて頂いた櫻井信也氏より、関連する先行論文をご恵贈頂く。わざわざありがとうございます。

近江国分寺と関係の深い最澄の動向、特に比叡山入山という行動について考える上で、いろいろ示唆を頂いた。特に、最澄比叡山入山の直前に、所属先の近江国分寺が焼失しているということは、これまで(管見の範囲では)指摘されてこなかったように思う。最澄比叡山入山の理由については『願文』などに見える「無常観と自己反省から」(田村晃祐人物叢書 最澄*1)というのが定説になっているが、この「無常観」が国分寺の焼失のショックだとしたらおもしろい。この辺の流れをざっとまとめてみるとこんな感じ:

年代 最澄関連 同時期の動き
宝亀11(780) 最澄近江国分寺で得度(近江国府牒案)
延暦2(783) 近江国分寺(度牒案)
延暦3(784) 長岡京遷都
延暦4(785) 最澄東大寺で受戒。比叡山に登る。近江国分寺(僧綱牒) 近江国分寺焼失(日本後記)
延暦10(791) 近江国々分寺(僧綱牒)
延暦13(794) 平安京遷都
延暦21(802) 近江国光明寺(伝述一心戒文)
延暦24(805) 国昌寺(顕戒論縁起)
延暦25(806) 国昌寺(顕戒論縁起)

こうやって年表にしてみると、「比叡山は平安京の鬼門を守るために作られた」ってのもウソだってのがわかるねー。平安京はまだできとらへんやないけ (^_^;;

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