「実践理論としての五姓各別説」という題で発表してきた。プログラムは以下の通り:
- 日時 平成18(2006)年12月2日(土)午後1時より
- 場所 駒澤大学会館246・7階会議室
- 研究発表会次第
私の発表は、以前仏教史学会の例会で発表した「五姓各別説と観音の夢」の一部を少し膨らましたもの。手抜きと言えば手抜きなのだが (^_^;;
- 以前の発表はどちらかと言うと歴史学な人たちが多かったので、仏教学な人たちに聞いてもらいたかった。
- 吉村誠さんや橘川智昭さん、私らが中心になって再検討している東アジアの唯識な人々*1の三乗説*2や五姓各別説についての一連の研究の中に、このネタを位置づけたかった。
などの理由で、あえて発表した次第である。もちろん、単なる再説では芸がないので、不十分ではあるが、新しい資料をくっつけたり、『GYRATIVA』3号に書いた論文との接続をはかったり、多少の進展はさせている。中でも、廣澤先生の「唯識は知識人のための仏教だった」説*3に対する反論ができたのは、学恩に報いることができた気がして個人的にうれしい。とは言え、レジュメに書いた内容は、推敲なしのいい加減なものなので、きちんとした論文に仕上げたいものである。
(書きかけ)
*2:例えば、拙稿[http://moromoro.jp/morosiki/resources/19981205.html:title=「法相宗の「一乗方便」説再考」]など。
*3:「振り返って考えると、仏教はそもそも絶対的な仏陀の救済の力に関与する人々の実践的な営みであるとすれば、その契機は、唯識思想の知的構成において重視されなかったともいえよう。実際に、唯識思想は知的な教理学としては、仏教基礎学として重視されたが、仏教の教理についての知識も乏しい人々も包み込む宗教運動にはならなかった。極論を言えば、唯識思想は知識人のための仏教であり、知的な関心でなく具体的な現実に直面して救済を求める多くの人々にとっての救済論を準備できなかった。/それでは、救済論にとって最も必須であるのは何か。それは宗教的な絶対者の顕現を自己との関係において実感できることである」(廣澤隆之「密教と唯識」、『大法輪』68-5、2001年)など。ちなみに、廣澤先生の『『唯識三十頌』を読む』にも同じようなことが書かれている。批判しておいてなんだが、この本はいい本だと思う。ISBN:4924297305:detail