入学試験のもろもろが終わったあと、id:moroshigeki:20061007:1159275301で触れた天台を護る神々 ―山王曼荼羅の諸相―を観に大津市歴史博物館に駆け込む。JR西大津の駅から徒歩15分ということだったが、迷うのは嫌なのでタクシーに乗る。あっさり着く(そりゃそうだ)。なんだ、園城寺のそばだったのか*1。
展示物から解説から、この手のマニアックな?特別展としては非常に充実したものであったと思う。特に美術史学的な解説が充実していてたいへん勉強になった。逆に、「山王」を空仮中の三諦で解釈する、みたいな刷り込みを学部生時代にされた者*2としては、宗教学、思想史、仏教学、神話学的な解説はほとんどなかったので、ちょっと不満。
まあ、そもそもここらへんにしかいない変な神様たちのわけのわからん世界*3なので、これからの研究に期待したいというところか。
たまたま来る途中で柄谷行人「交通について」*4を読んでいたので、その中の次のような一節を気にしながら展示を見ていた:
日本の思想家について私が考えざるをえないことは、結局“交通”という問題に還元しうる。日本の思想史は幸か不幸か“交通”というものを経験したことがなかった。あったのはcourseであって、inter-courseではなかった。(中略)朝鮮や東南アジアではそれではすまなかった。(中略)日本人には稀有なオプティミズムがある。何をどんなに受けいれても、けっして根こそぎやられることはないというオプティミズムである。(中略)明治時代にいたるまで、われわれは“交通”のこのような残酷さをまぬかれていた。そして、それがわれわれの根本的な体質になっている。(中略)が、それは「世界史」においてはまったくの偶然事にすぎないし、そのようなものとしてみるべきである。