「文書を書くこと・読むこと」ほか

いつも色々なことを教えてもらっている北條さんから、師さんの研究に有益でしょうから、と、以下の論文のコピーをわざわざ送っていただいた。感謝感謝。
  • 渡辺滋「文書を書くこと・読むこと —日本古代における音声言語と書記言語の関係を中心に—」(『駿台史学』126、2005年12月)
  • 西澤一光「上代書記体系の多元性をめぐって」(『萬葉集研究』25塙書房、2001年10月)
  • 北村直昭「中世写本の文字と「古代ローマ」」(『幻影のローマ』、青木書店、2006年3月)
渡辺論文は、知らないことばかりだったのでいろいろ勉強になったけど、音声言語と書記言語を二項対立的に捉えている感じがちょっと気になった。あと、漢字/漢文の表音文字的性格についても、もう少し視野に入れた方がいいかもしれないかなぁ。 西澤論文は、「普遍的な文字言語としての漢語の内部に、固有の「日本語」を書くための領域が成り立っていったというべきである」なんていう発言からもわかるように、漢語と日本語を二項対立的に考える従来の考え方に異議申し立てをしているという意味で刺激的である。『万葉集』の成立過程とかについてはまったくわからないので、細かい考証のところはわからないけれども。 6月10日に早稲田大学東洋哲学会で「徳一の「如是我聞」訓読をめぐる二、三の問題」という題の発表をすることになっている。ちなみに概要は、
『守護国界章』巻中之中・弾謗法者偽訳如是章第十二には、徳一が経典冒頭の「如是我聞」を訓読によって解釈するのを最澄が批判する、という論争が見られる。この徳一の解釈は『仏地経論』『法華玄賛』等に基づくものであるが、訓読という方法は平安初期としては珍しく、思想史研究の対象としてだけでなく、国語学の研究対象としても注目すべきものではないかと思われる。
という感じなんだが(今気づいたけど、「訓読という方法は平安初期としては珍しく」というのは書き間違いだな〔慌てて送ったから (^_^;;〕。訓読が珍しいんじゃなくて、そういう資料が珍しいということです)、特に上の二つの論考は、このテーマにかぶるので、とてもありがたい。感謝感謝。