たくさんのテキストは不快である

昨年から、大谷大学で人文情報学特殊講義2という授業を持っている。シラバスの「受講上の留意点」として、
レポート課題を出すと「ヒントを下さい」「参考になるサイトはないですか?」という質問をする学生さんがいますが、まだ誰も考えたことがない問題についていっしょに考える、というスタイルの授業ですので、そのような質問をされても困ります。
と書いていることからもわかるように、あまり(近頃流行の)教育的配慮がない授業である。今日も一回目のイントロダクションということで、「半年後、自分が何をしゃべっているかわかりませんが、どうぞよろしく」みたいなことを言っておいた(一応、半年分のネタは用意してるけど)。この授業を担当しないかと声をかけて下さった先生から「好きなようにやって下さい」と言われているので、まったく問題ないのである (^_^;; テーマは一応「電子テキスト論」としているが、今年度は電子テキストの集合、電子テキスト群のモデル化とか、それにともなう制度とかについてしゃべろうと思っている。今日はイントロダクションということで、受講生諸君に次のような質問をしてみた:
1通のメールを読む場合と、同じ相手とやりとりした100通のメールを読む場合では、読み方にどのような違いがあるだろうか?
この質問からコンテクストの話とか、間テクスト性まで無理矢理持って行こうという腹だったのだが、受講生の回答を読んでいて別の持って行き方もありかな、と思うようになってきた。 受講生のコメントに多かった回答は「1通読むのはちゃんと読むけど、100通読むのはうざい」というものである。この回答を見た直後は、「うざい」というのはありがちな思考停止だよなー、「100通だと数が多いので読むのに時間がかかる」とか「100通を記憶することは難しいので、正確に把握することが難しい」とか、原因とか要素とかに分割にして書いてくれたらいいのに、そうすればモデル化もしやすいんだけどなぁ、なんて思っていたが、よくよく考えてみると「うざい」は「時間がかかる」とか「記憶できない」とかだけに還元できない。「うざい」には「不快である」というニュアンスがある、というか、それこそが大きな要素である。なるほど、処理するかどうかは別にして、大量の(電子)テキストを目の前にした時(目の前に、というのは多分に比喩的である)、不快かどうかはともかく、ぞわっとしたりするような、ある種の直感を抱くのは不思議なことではない。むしろ当たり前のことである。私の方が既存の処理とかモデルに毒されたものの見方しかできていないのであり、学生の方がむしろちゃんと認識してるんじゃないか、なんて反省したりしながら、バスに乗って帰宅した。 これからの展開として、この問題を、例えばGoogle先生のインターフェースはなぜ使いやすいか、みたいな問題に置き換えることもできるかもしれないが、とりあえずは事を単純化しないでゆるゆると考えてみたいと思っている。