五姓各別説と観音の夢

以前ここに書いた通り佛教史学会の1月例会で、五姓各別説と観音の夢 ―『日本霊異記』下巻第三十八縁の読解の試み―と題する発表をしてきた。最近忙しすぎて発表を自粛してきたので、仏教系ではすごく久しぶり(2005年度最初 (^_^;;)の発表である。 詳細はレジュメを読んでいただくとして、昨年末にMacが壊れた際、書きかけの原稿が飛んだりしたので(涙)、構想していたものの発表やレジュメに盛り込めなかった部分について(例会や懇親会の場で口頭で補足したが)ここでちょこっと書いておきたい。 今回の発表でやろうとしたことはおおざっぱに言えば二つある。一つは景戒が生きていた時代の思想史的な状況、特に従来「空有の論争」と言われてきた論争史を紹介しつつ、景戒が『霊異記』を書く際の環境を考えるための材料を提示しようとしたこと。もう一つは、景戒が夢解釈や『霊異記』の叙述を通じて、インド以来の瑜伽行派法相宗の伝統で行われてきたような宗教的実践を行おうとしていた可能性を提示してみたこと、である。 一つ目について、レジュメでは書けなかったが、「空有の論争」というものを考える上で朝鮮半島の影響というものが無視できないことは指摘しおかなければいけないだろう。石井公成さんは「『霊異記』は新羅仏教研究のためのテキストになる」みたいなことを言っているけど、そういうインターナショナルな(というと、安っぽい感じだが)視点というのはもっと強調されていいように思う。発表後の議論の中で北條さんが高句麗僧の話を出していたけど、今回のネタに限らずいろんな方面から分析可能だと思う。これ以外にも北條さんにはいろいろアイデア(歴史叙述としての『霊異記』と論争という点で見た場合、三論/法相の間での聖徳太子の奪い合い、歴史認識の奪い合いみたいなのを想定することができるかもね、みたいなことなど)を頂いたので、感謝感激。 二つ目については、これは前々から考えていたことが、ようやく形になった感じで感慨深いところもある。今の学会では、八識説や三性説などのメジャーな唯識思想と、今回とりあげた五姓各別説や『瑜伽師地論』などに載ってる入門儀礼などとの間には、なんとなく溝がある。でも今回、景戒の夢解釈を検討することを通じて、アーラヤ識、五姓各別説、種姓説、菩薩戒などは修行者の主観的な立場、もしくはある修行者個人が師匠との関係の中で修行していくというような場合を想定した概念(もしくは宗教的言説のための装置)という感じで共通の基盤の上にあるもとして捉えるべきであり(いわば「単独者」のための概念)、これらの概念を衆生の救済などの文脈で使っても機能しないんだ(唯識無境だったら、救いの手を差し伸べてしゃーない)、ということがはっきり見えてきたのである。今更なんだけど、法相唯識は宗教なのである、と胸を張って言えるような気がしてきた。 あと、稲城さんといろいろ議論しながらわかってきたことだけれども、観仏という実践は天皇や貴族の受戒の意味などを考える上で、結構便利な視点になるのではないか、という点も収穫だった。仏教史学会ははじめての参加だったけど、北條さん、稲城さんがいたおかげでリラックスしてしゃべることができたのは、大変ありがたかった。感謝感激。