仏鬼

野火迅『仏鬼』 北條さんご推薦。日本中世史、仏教思想史などのレベルが小説にしてはけっこう高くて(もちろん、小説としての限界みたいなのはあったけど、まあその辺は目をつぶって)、なかなかおもしろかった。でも、最後の明恵との問答はちょっちしょぼいね。道元ファンも、あの役まわりでは納得いかないだろうしな (^_^;; この小説に出て来る真如宗は、瓦石こそが仏性である、みたいな理論でばしばし人を殺していく訳で、それが世間的仏教観とまったく逆なところが面白さになってるんだけど、仏教で殺人を完全に否定しているかっていうとそうではないんだよね。例えば、『瑜伽論』には、
若諸菩薩安住菩薩淨戒律儀、善權方便爲利他故、於諸性罪少分現行、由是因縁於菩薩戒無所違犯生多功徳。謂如菩薩見劫盜賊爲貪財故欲殺多生、或復欲害大徳聲聞獨覺菩薩、或復欲造多無間業。見是事已發心思惟「我若斷彼惡衆生命墮那落迦。如其不斷、無間業成當受大苦。我寧殺彼墮那落迦、終不令其受無間苦」。如是菩薩意樂思惟、於彼衆生或以善心或無記心、知此事已爲當來故深生慚愧、以憐愍心而斷彼命。由是因縁於菩薩戒無所違犯生多功徳。(大正30, 517b)
超訳)もし菩薩が清らかなる菩薩戒を身につけている場合、人々を救いたいという目的で罪を犯すようなことをしても、戒律を破ったことにはならず、むしろ功徳になる。例えば、盗賊が強盗のために人をたくさん殺そうとしたり、高僧に害を加えようとしたり、きわめて重い罪を犯そうとしているのを、ある菩薩が見たとする。その菩薩は「もし私があの悪人を殺したら、私は地獄に堕ちるだろう。殺さなかったら、あの極めて重い罪によって、彼が地獄に堕ちるだろう。彼を殺して私が地獄に堕ちることで、彼を地獄に落とさない方がよいのではないだろうか」と考え、善の心もしくは善でも悪でもない心で、自らがこれから犯す罪を深く反省しつつ、あわれみの心で盗賊を殺したとする。このような場合も、戒律を破ったことにはならず、むしろ功徳になる。
なーんて書いてあるし。宗教的目的のためには殺人すら肯定されるというのは、宗教ではあたり前だと思うんだけど、(特にオウム以来)それに目を背けてきた現在の宗教の現状が、この小説を「面白い」と思わせてるんだとすれば、皮肉なもんではある。