落としどころ

今日は朝から夕方まで入試事務室で待機。夏子ねーちゃん=上原多香子のサインをもらい損なったなんて芳井先生の話を聞きながら、ゼミのレポートをばりばり読んで添削する。ほぼ全員が、論理的な文章を書けてないので、ちょっと悲しくなる。唯一、K君(福井出身)のレポートはきちんと書けていて、コメントも内容を掘り下げるものが書けた。 その後、アルファサードの野田さんとミーティング。前に書いた話の続きと、ゼミ生のK君(岐阜出身)をしばらく預かっていただくことになったのでその顔合わせである。 野田さんが「自分にとってモノ作りこそが一番で、アクセシビリティはその中のごく一部にすぎないのだ」と言っていたのを聞いて、ちょっと意外に思った。アクセシビリティがらみでいろいろなところで講演をされているので、てっきりコンサルティング道を目指しているのかと思いきや、早とちりだったようである。私もモノを作るが、私の場合モノを作ることが楽しいというより、自分の主張、アイデアを表現するためのモノを作るのが楽しい(だからwinnyを肯定的に議論するの「思想の表現としてのwinny」という考え方にも共感する)。活動家体質なのである。 野田さんの話で深く共感できたのは、アクセシビリティなどの理念を追求するのは必要だが、それを「まあまあ」と言ってどこかに落とさないと仕事が進まないので、その役目を自分が引き受けている、というものである(守秘義務 (^_^;; があるので、具体的なことは書けないが)。理想主義のコンサルティング道な人々や人文科学の研究者は、どこか落としどころを見つけることを「撤退」「屈辱」「妥協」「迎合」etc...とネガティブに考えがちである。しかし、このごろの人文科学はまじめに突き進むと柄谷行人の言うようなゲーデル的堂々巡り地獄に突入する。この堂々巡りから脱し、現実と切り結ぶためには、「まあまあ」が極めて重要である(最近、これを「人文工学」などと呼んでうまく理論化できないかと思っている)。高度なモノ作り(論文執筆も含む)には絶対に必要な能力である。 一方でアクセシビリティを説き、一方でモノ作りにこだわる野田さんに、内田樹さんの言う「現場の人」を感じたのである。そして、人文系のくせにモノ作りをしてきた/させられてきたために、しばしば自分自身を含む各方面からの人文系的人格否定の危機を経験してきた私は、野田さんのこの態度に深い共感を憶えるのである。まあ、勝手な思い込みかもしれないけど (^_^;; ともかく、K君(岐阜出身)には、いろんなことを吸収してきてもらいたいものである。