原爆ドーム〜人文科学とコンピュータ研究会

韓国の大学みたいに背後に山をいだく広島市立大学で開催された情報処理学会第65回人文科学とコンピュータ研究会に参加するために、広島に行ってきた。 広島というのは、新幹線で乗り換えたぐらいの印象しかない(大阪に住んでた小さい頃、行ったことがあるかもしれないが)。方法論懇話会で記憶の問題をテーマに議論していることもあり、急に思い立って、研究会の午前の部をキャンセルし、原爆ドーム平和記念資料館を見ようと思った。最近、阪神淡路大震災のことについて、テレビ、新聞で「次の世代に伝えるために」というように言説がやたら流されていたのを、耳にしていたからかもしれない。 SA270044右の写真は原爆ドーム相生橋から爆心地方向に向かって撮ったもの。当日はぼかぼか陽気の晴天だったが、思いっきり逆光の中、携帯電話のしょぼいレンズで撮ったのでこんな風に。太陽がまるで、いま爆発している原爆のような。 それはともかく、初めて見た原爆ドームは、想像してたのよりも小さかった。このような(非常に強い意志で保存されている)廃墟が、どこにでもある都会の風景ときれいに整えられた公園とのあいだにあるのはとても奇妙に見える。本当にふと思い立って訪れたので、予習も何もしていない状態なためか、かなり想像をたくましくしないと、この廃墟と大殺戮とを結びつけることが難しい。 SA270043俺には全然、広島の記憶がないじゃないか、せっかく記憶について考えるネタにしようとして来てるのにこれじゃいかんだろ (^_^;; などと思いながら資料館に向かって公園を歩く。すると、この違和感はますます膨らんでいく。公園やら資料館やらは皆、真っ白、真ん中に池があってその隣に日の丸がぱたぱた。あれ?ここは死者の鎮魂とか平和の誓いとか、そういう場所じゃないの? じーちゃんばーちゃん(被爆者なのかもしれないが)がだべってたり、カップルが犬の散歩させてる、ただの(妙につるんとした)公園じゃないか。よくみると木陰に千羽鶴が供えられた慰霊碑があったりするのだが、なんかうまいこと隠蔽されているような気がしてならない。肩すかしを食らった気分。中国人なんかこまるんじゃないか、写真撮る場所がないって (^_^;; そんな疑問を持ちながら、資料館へ。50円って妙に安い。時間がなかったのでゆっくりは見られなかったが、こちらも思ったより展示が少ない感じ。もっとどろどろしてるかと思ったが、そうでもなかった。どろどろ度では、子供の頃に見た会津武家屋敷の一家自刃ジオラマとか、会津地方の子供のトラウマになっている?白虎隊全滅関係の絵、ジオラマなんかの方がよっぽど自分の中に強く残っている。やっぱり記憶って教育とかに依存するのねー、同じ日本でもずいぶん違うのねーなどと思いつつ研究会へ。 かいつまんで感想を: ○吉村・八村・丸茂「舞踊動作を表す特徴についての検討」 モーションキャプチャによって日舞の数理的な記述、解析をしようという試み。以前、「日舞をそうやって記述したら日舞じゃなくなるんじゃないか?記述することの暴力性(とは言わなかったが)についてはどう考えているのか?」と質問したら、日舞歴45年というマスター丸茂から「地方で間違った日舞を学んできた子たちに正しい日舞を教えるため云々」という素敵な回答をいただいたことがある(その後、バトルしようと思ったけど司会者に止められた (^_^;;)。この問題意識は先のシンポジウムのパネルディスカッションにつながっている。今回はマスター丸茂が来ていなかったので、何もアクションを起こさず。いや、全否定するつもりはないんだけどね、気になるんだよね。 ○三宅・赤間・中川・馬越「異本解析アルゴリズムSynoptic Patchによる計算共観表の作成」 東工大のCOEの一環とのことで、一番聞きたかったやつ。聖書学の共観表という考え方がよくわからんので全体的な評価はできないが、古典文献の分析一般に応用できる可能性は見て取れた。というか、自分も科研で「大規模漢字文献の確率統計的分析」というのをやっているので、因子分析の話などは応用してみたいと思ったりする。3月のシンポジウムに行きたいけど、行けないかなぁ。 ○矢野「芸道伝書の発展経過の数理文献学的考察−Spectronet, Split decomposition−」 DNAの分析に使われる手法を用いて、異本の分析を行う試み。面白そう。 ○小沢「前方後円墳の墳形と築造企画」 小沢先生のライフワーク。是非、何らかの形でまとめてもらいたい。 ○中谷「『御府内沿革図書』のデータベース化とそのアニメーション表示」 ゆがんで不正確な江戸時代の土地台帳的な地図を修正して、経年変化をアニメーションで表示してみたり、他の絵図のゆがみを直す材料にしてみようという試み。これはそれなりに役立つツールだとは思うが、江戸時代の空間把握を近代的な観点から「ゆがんでいる」と評価するのは、歴史学的には明らかに転倒である。そんなことを指摘したいと思って「江戸時代の人の心性を調べるにはゆがんでいるということが重要なので、そのゆがみを網羅的に抽出できたり数理的に傾向を調べたりできるようなことをやってほしい」みたいな提案をしたのだが、今思えばその提案自体も近代べったりなものであったなぁと反省している今日この頃。