マンガ学への挑戦

勤務先の客員教授をしていただいている夏目房之介先生の近著マンガ学への挑戦NTT出版、2004)を、ゼミ合宿の合間に斜め読み。売れ行きが好調とのことで、うらやましい限り (^_^;) 前に思いつきでえらそうなことを書いた手前もあるし、私の部屋に出入りしている学生(このblogも読んでる)が夏目先生とディスカッションして色々勉強させていただいたそうなので、せめて感想だけでも。読み落とし、誤解についてはご海容されたく。 まず全体として見れば、私が適当に考えたことなど先学はとっくに研究されており(当たり前)、現在も戦線拡大は続いている様子。現在の水準を示すと言う意味では、この本の意義は大きいんじゃないかと思う。ただ、いくつか気になる点も目に付く。 氏は、『編集王』を例に挙げ、編集者対作家みたいな「単純な対立構造という社会は、日本ではとっくのむかしに終わっているので」、このようなお話は「いまの時点では、日本では夢物語になる」と述べる(p. 61)。さらに夏目氏はこのような分析を「歴史的な言説として相対化しようとした」(p. 62)ものだと述べる(どうもこの章は、花大で講義されたみたい)。マンガとその読者を歴史化する、という作業は、ノラの仕事とも共通する非常に意義のあることではないかと思うし、史学科出身だからかこの手の資料批判の目は非常にするどい。 しかし、氏の発言を素直にうけとめれば、昔はそういうのがあったということになるが、果たして歴史上一回でもこのような対立構造が支配的だった時代があったのか?という疑問がある。むしろこの『編集王』から読み取るべきは、このような単純な対立構造=物語(ナラティブ)が、現代において商品化され消費されている状況を成立させている社会的コンテクストであり、その意味では氏の発言はこのコンテクストを相対化し対象化することができていないように思える。さらに言えば、私の考える批評は、前にも書いた通り、物語の背景にある現代を見抜くことであり、いろいろな立場の間に「橋をかける行為」(p. 68)では不十分な気がする。 次に、夏目氏の「テクスト論」への違和感について。この直感は、恐らく正しいと思う。「正しい」という言い方は変だな――少なくない人が共有している違和感である。まあ、でも、この手の方法論は、別に世界のすべてをこれで説明しようというのではなく、目的を達成するために編み出されたものに過ぎない、という大人の接し方 (^_^;) が望ましいのかもしれない(そうじゃない人がいるのも事実だけど。格闘技なんかもそう。あらゆる格闘技には必ず想定するシチュエーションがあるのに、6メートル四方の四角いリングで裸のおっさんが一対一で戦うという極めて特殊な場を「最強を決める場所」なんて言うのはちゃんちゃらおかしい。超脱線スマソ)。 しかしながら、「近代が発見したという「子供」は、「古典」は、「民族」や「伝統文化」は、それ以前に存在しなかったのか?/そうではない。その言葉や概念の枠組みが対象とする存在や現象は存在した」というのは、あまりにも素朴すぎる反論ではないだろうか。山田先生の本は買っただけでまだ読んでない (^_^;) のできちんとしたことはここでは言えないが、モノとしての作品自体は物理的に何の変化もないのに、作品の価値が時代によって変化するという点だけとっても、マンガを論ずるときテクスト論(をはじめとするポストモダンな諸理論。構築主義とか)は依然として大きな武器になるのではないかと思われる。 ただ、先に書いたように、お気楽テクスト論が理論的限界に来ているのは事実。歴史学の方法論では、ラカプラが「偉大なるテキストはやっぱりある」みたいな言い方でコンテクスト還元主義(作者は近代社会が作り出した幻想なんだよ~みたいな考え方)を批判していたりする。ただしそれは、テクスト自体がネットワークを組んで、読者の好き勝手な「読み」に抵抗する、というようなモデルだったりするので、テクスト自体に不変の価値があるというような(テクスト論とは反対の)お気楽主義とは異なる。この抵抗のネットワークという考え方は、マンガと同人誌などとの関係を説明するのに、使えるかもしれない~と無責任に妄想してみたりもする。