これまでの海外の学会

思うところあって、これまで参加してきた海外の学会をまとめてみた(師 茂樹 - 研究者 - ReaD & Researchmap等ですでに公開されている情報ではあるが)。海外なのに日本語で発表しているのも何回かある(逆に日本での発表なのに英語で発表している場合は除いている)。

  1. Electronic Buddhist Text Initiative, 1999 Taiwan Meeting(1999年1月18-21日、台湾:中央研究院)
  2. Electronic Buddhist Text Initiative, 2001 Seoul Meeting(2001年5月25-26日、韓国:東國大學校)
  3. 韓・日共同印度学仏教学学術大会/日本印度学仏教学会・第53回学術大会(2002年7月、韓国:東國大學校)
  4. Yogācāra Buddhism Symposium(2002年9月、カナダ:カルガリー大学)
    • 師茂樹「「私」を書き残すために ―松本史朗「縁起について」の可能性―」(『GYRATIVA』3、2004年3月)はこの出張での体験を下敷きにしている。
  5. 2004年韓国仏教学結集大会(2004年5月1-2日、韓国:中央僧伽大学)
  6. 2004金剛大学校国際仏教学術大会(2004年10月、韓国:金剛大学校)
  7. 情報処理学会・第76回人文科学とコンピュータ研究会研究発表会/東南科技大学2007国際シンポジウム「人文科学とコンピュータ科学」(2007年9月、台湾:東南科技大学)
  8. 2010年度 第15回 元曉學研究院 學術大會「元曉學_諸問題II」(2010年11月12日、韓国:仏国寺文化会館)
  9. 第一屆慈宗國際學術論壇(2013年8月23-25日、香港:香港理工大学)
  10. Logic and culture: Theories of logic in Buddhist, Muslim and Aristotelian scholastics(2013年11月12-15日、ネパール:Lumbini International Research Institute)

大学の業務等でいくつか断っているとはいえ、たいして行ってないなぁ。これからも機会があれば積極的に参加したい。

愛国心を考える

最近また愛国心教育が話題になってきたので。

愛国心を考える (岩波ブックレット)

愛国心を考える (岩波ブックレット)

2007年9月、つまり東日本大震災の前の出版となると、ずいぶん昔の話にも思えてくるが(東日本大震災の「画期」感は強いですな)、実際に読んでみたらちっとも古びていない。むしろ今の時期に読まれるべき本の一つではないか。さくっと読めるし。以下メモ。

  • 日本の愛国心は、明治期に、近代の概念とともにヨーロッパから輸入されたもの(8ページ〜)。
  • 13世紀までヨーロッパでは、ネーションが帰属意識の対象となることはなかった(10ページ〜)。
  • 14世紀頃から始まったパトリオティズムは、宗教的な「血の犠牲」の観念を含む。祖国のために人を殺し、死ぬことこそが「至上の犠牲」(13ページ)。
  • 歴史的に見れば、ムスリムには信仰共同体(ウンマ)に対する帰属意識(コスモポリタニズムに近い)はあっても、ナショナリズムパトリオティズムは見られない。近年のムスリムナショナリズムは西欧の植民地主義への反応(13ページ)。
  • 18世紀の、共和制や民主主義を提唱する革命家たちも、王権に対してネーションを対置する形で愛国心を発露した(16ページ)。
  • 会社も愛社精神を重要視するが、単なる訓示や社歌を歌わされるだけの愛社心の涵養は、組織の成功には結びつかない(22ページ)。
  • 愛国心とは、「私たちの国はどんな国か」や「私たちの国がなりうるもの」を表す一連のイメージに対して、人々が感じる愛情のことである。」(25ページ)そして、人々の抱くイメージは多種多様。
  • 「日本でも、愛国心は当初、「革命的」な思想であった。」(28ページ)
  • 大日本帝国は、植民地朝鮮にのみ「愛国日」を導入した。「愛国心を涵養しようとする上からの取り組みは、それらの臣民の自発的な愛国感情に政府が疑問を抱いている状況で、とくに強化される傾向がみられる。愛国心が本当にすべての人々が抱く自然で自発的な感情であれば、そもそも政府はそれを促す必要ななかっただろう。普通の人々が、十分愛国的でなかったり、間違った愛国心を持っていたりするからこそ、政府は愛国教育のキャンペーンを行う必要があったのである。」(33ページ)
  • 第二次大戦後から1960年代初頭までは、むしろ日本における愛国心をめぐる議論がもっとも活発で生産的な時代のひとつであった。「しかし、戦後の愛国心は明治時代や一九三〇年代のそれとは性格が異なる。「愛国心」の意味は人によってさまざまである、という幅広い認識がみられた。…全体として一九四〇年代後半と五〇年代の「愛国的行動」は、倹約でも自己犠牲でもなければ、日の丸でも君が代でもなく、自分の国をよりよい国にしようとする作業の中で定義される傾向がみられた。」(39ページ)
  • 愛国教育には、愛国的な行動のモデルとして提示される人物がつきものである。日清戦争で、最後まで自分の持ち場を離れずにラッパを口に加えたまま死んだ木口小平など*1(42〜43ページ)。
  • 「…日本でもジンゴイズムや外国人恐怖症(ゼノフォビア)が増大しつつある。日本のケースでは、これらの醜い感情の主なはけ口の一つがインターネットであり、そこはチャットグループによる憎しみと人種主義的な言葉で満たされている。…愛国的なシンボルと、さまざまな「他者」に向けられた憎しみの言葉は結びつき、国に対する弱々しい従属的な愛情を表す。それは「自分の国のために何ができるか」と問いかけるのではなく、「自分の国の強さは、日常の恐ろしい問題から私を守ってくれるのか」と問いかける愛情である。」(64ページ)

こういう本が500円程度で買えるんだから、日本ってすばらしいよね(←愛国心)。

*1:東日本大震災で、最後まで自分の持ち場を離れずに防災放送を続けた南三陸町職員の遠藤未希さんが、道徳教科書に載るという話とだぶる。http://togetter.com/li/247740

縄文少年ヨギ

ちび向けに買ったものだが、読んでみた。

縄文少年ヨギ (ちくま文庫)

縄文少年ヨギ (ちくま文庫)

水木しげる作品を読むたびに思うのは、一見近代人風なふるまい、話し方をするキャラクターたちが、前近代的なものや超常現象的なものに対峙した時に、何の抵抗もなくすっと受け入れることの、なんとも言えない心地よい脱力感みたいなものである。この作品でも、それを楽しむことができた。

徹底検証 韓国論の通説・俗説 日韓対立の感情vs.論理

あけましておめでとうございます。毎年のことですが、冬休みになると気が抜けるのか、疲れがどっと出て横になることが多い年末年始です。大晦日には、布団でごろごろしながら、これを読んでました。

韓国と日本との歴史認識、法に対する考え方などの違いがよくわかりました。今までわかっていたつもりだったこともいろいろ勉強しないといけないと思った次第。

グローバル化によって東アジアにおける日本の位置づけは、日本人が思っている以上に(←これが重要)低下しており、韓国における日本の位置づけも例外ではない。したがって、【韓国崩壊 最新】日韓スワップ協定、朴槿恵が泣きついてくるのは時間の問題=ネット「100倍返しだ!!」「もう関わるな!!」のような議論は成り立たないし、場合によっては日本が自身の経済力を過信して恥をかく可能性があるもあるとのこと。韓国は、国際司法裁判所に出ることを想定して、各国に博士号を持ってるぐらいの人材を派遣したりするなど、着々と準備しているとのことで、「韓国は国際司法裁判所に出ると負けるから拒否しているだけ」というような、2ちゃんねるまとめ掲示板的な議論もまた危ういものであることがわかります*1

この本は2012年、イ・ミョンバク政権の頃ですが、政権交代があったり、所謂「慰安婦問題」についてもその後いろいろ展開があったようです。

本書の著者の一人、木村幹氏のツイートをフォローしてますが、なかなか勉強になります。今後もいろいろ精進が必要なようです。

*1:本書とは直接関係ないけど、日本の仏教学の状況もこれに似てるかも。

言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学

冬休み息抜き読書は続く。

認知言語学の入門書。生成文法との対比で書かれていてわかりやすい。

最近研究している因明(東アジアの仏教論理学)を読んでいくのにヒントになるような概念がたくさん出てくる。認知言語学は、意味論と語用論とのあいだに線引するのは無理、という立場だそうなので、やはりそのあたりが連続している(というか、そこにはっきりとした線を引くのは従来の言語学に特殊なやり方なのだろう)因明の世界になじみやすい印象。たとえば認知言語学における「プロトタイプ」の議論などは、因明における自相(と差別)の議論を考える上で参考になるのではないかと思う。

荒天の武学

冬休みに入ったので、軽めの新書を読みたかったのである。

荒天の武学 (集英社新書)

荒天の武学 (集英社新書)

東南アジアやハワイの武的環境がなかなかシビアみたいなので(そういう環境には住みたくないけど、他人ごととしては)たいへん興味深い。プロレスの世界でしばしば言われるサモア人最強説がさらに強化された。

光岡英稔氏の武術観、武道観は、仏教の(特に部派や瑜伽行派のような伝統的な)瞑想修行に近いように思われる。

三位一体説をめぐる対話のなかで内田樹氏が述べた「四世紀くらいまでは聖霊の接近をありありと感じられた人たちが普通にいた」(p. 176)などの言葉に、少し考えるところが(キリスト教のことではないけど)あった。